澤村 斉美


あかときの雪や雪てふ仮の名をもちて此岸の葦の間に降る

三井ゆき『鷺芝』(1987年)

暁の、葦の間に雪の降る光景である。雪が葦の間に消えながら降る様子がはかないが、作者はじっと佇んでその様子を眺めているような歌いぶりである。「雪てふ仮の名をもちて」降るというところが痛切だ。「此岸の葦の間」に降っているのであるが、「此岸」という言葉は暗に「彼岸」を思わせ、この世とは別の場所に降る「雪」を作者は思うのである。此岸において仮の名をもって降る「雪」は、「私」がこの世に在ることの不思議をくっきりと浮かび上がらせる。夜と朝の境目である「暁」に、遠近感やものの輪郭を曖昧にして雪が降り、この世と別の世界との境界のような場所へと作者を連れていったようだ。

 

この歌が含まれる一連「奈良井」には次の歌もある。

 

  暮れ方のいろのなかにて擦れちがふ人の右手の豆腐が白し

 

日暮れの、光を失って徐々に暗くなっていく道で、擦れちがう人が豆腐を持っていた、という光景だ。なにごともないスケッチのように見えて、しかし、この豆腐を持つ人が奇妙になまなましい存在感を持っている。「右手の」という具体的な描写と、「暮れ方のいろのなか」に浮かびあがる豆腐の白さのためだろう。具体的な景色を描きながら、この歌も、人がこの世にあることの不思議に行き着くように私は思うのである。掲出歌も、厭世的な気分から「雪てふ仮の名をもちて」や「此岸(とその対になる彼岸の連想)」という発想が出ているのではなく、「なぜ、いま、ここに、このようなかたちで」という、存在についての問いを歌の景色の中にとどめようとしているのである。答えを求めての問いではない。問いつづけるしかない、と分かっているからこそ痛切に響く歌なのだ。

 

同じく「奈良井」からこの一首も。

 

  こほろぎの貌は中世ものの具の音もたてずに滅びへと跳ぶ

 

「中世」以降の歌の飛び方に驚いた。コオロギの姿形が、「ものの具」つまり甲冑を着けているように見えるが、甲冑のような音は立てずにごく静かに死への跳ぶ、というのか。それとも、「滅びへと跳ぶ」からすると、中世武士の生き方そのものが、コオロギが跳ぶごとく静かに死へと跳ぶように向かうものだ、ということか。その双方が一体となっている歌であるように思う。コオロギも中世の武士も「『滅び』へと向かって跳ぶ」生であるという点で同じく、存在をめぐって意外な視点が開けている一首である。