棚木 恒寿


うらぶれた汚れた孔雀冬ざれの日本にゐて日本に似る

                                 馬場あき子『鶴かへらず』(2011年)

 

 昨年刊行された第二十三歌集『鶴かへらず』の巻頭作より。

 

 なんだか暗い一首だ。動物園の柵の中で長く飼われて来た孔雀だろうか。狭い場所に閉じ込められた孔雀は汚れて、羽をひらくこともない。「うらぶれた」は、単に若鳥でないとか汚れているというだけではなく、本来はあでやかな存在であるはずの孔雀が失ってしまった覇気や精神の張りのようなものを表わしていると思う。そんな孔雀が「日本にゐて日本に似る」という。孔雀の姿が、日本に住む人々のわびしさに重なる。

 この巻頭歌はかなり端的な表現になっているが、『鶴かへらず』には、馬場の「こんなはずではなかった」という時代への呟きがほのかに聞こえるような作も多い。

 

 目つぶしを受けたやうなりひと思ひにさくら咲きすべてすべて後手なり

 選挙のたびつやつやと笑ふ顔ふえて怖くなり桜満開に咲く

 逃げやうもない現実の中に咲くさくらを見れば春こそさびし

 南の紅いインコが叫びゐる木枯らしの街万国旗垂れ

 

 一首目は桜の盛りを詠む。桜が一斉にひらく様子を「眼つぶしを受けたやう」というのはユーモアであり、まるで後手に回ったように桜を愛でているのは喜びだけれど、「すべてすべて」のリフレインあたりに、同時になにか取り返しのつかないようなことがこの時代に進んでいるのではないかという感覚もかすかにある(というのは深読みだろうか)。というのも歌集ではこの歌の次に、引用二首目の「選挙のたび~」があり、桜の満開はよろこばしさばかりではないのである。四首目、インコと万国旗の組み合わせは、やや戯画化されて映画のワンシーンのようで印象に残る。

 

 天井より虫湧き落つる夢見たりわれのいづくか腐りつつある

 女の顔右がはがいいといふけれど絶えまなくけやきが散つて冬なり

 何かが大きく変つたやうに思つたがわが時間すこし減りにたるなり

 

 また、このようなユーモアのある老いの歌も印象的な一冊である。

 

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明けましておめでとうございます。今年1年間、石川美南さんとともに「日々のクオリア」を担当させて頂くことになりました。長い連載を乗り切るには体力が大事と、年明け早々人間ドックに行って来ました。幸い健康には問題ありませんでしたので、もう頑張るしかないと思っています。私の読みに誤読がある場合はぜひご指摘をお願いします。読者の皆様と共に読みを作ってゆきたいと願っています。                                  (棚木恒寿)