この沼に来し日は知らず発つ時を見ず幾たびか水禽に会ふ

春日井建『白雨』(1999年)

水鳥が、静かに沼に浮いている。

さして思い入れは深くない。語り手は、冬の初めに鳥たちが飛来したところを目にした訳でもなく、やがて彼らが飛び去っていく季節が来ても、殊更に惜しんで見送ることもない。しかし、沼を訪れるとき、彼らはそこにいる。

「幾たびか~会ふ」が面白い。たった一度の運命的な出会いなどではなく、日常的に深く関わり合う間柄でもないが、ある日、確かに同じ場所と時間を共有したのだ、という感触。
連作を読むと、「水禽」は鴨の類であるとわかるのだが、ここでは敢えて「すいきん」という、美しい響きの言葉を選択しているのだろう。「知らず」「見ず」という否定形の畳みかけと、4句目の句跨りとが、一首のリズムをきりりと引き締めている。

歌集『白雨』に収められているのは、春日井建が58歳から60歳にかけて作った作品。「短歌研究」誌上での8回にわたる連載が中心となっており、比較的プライベートな内容が歌われている。
巻頭に置かれた連作「朝寒」は、不思議な緊張感を帯びた一連である。

 

  薄明のもののかたちが輪郭をとりくるまでの過程しづけし

  イーストの香のやはらかし白胡麻の味つけをして今朝の食卓

 

と、目覚めから朝食までのひとときを静かに描き出したのち、年老いた母と共に沼を訪れる場面へと移り、さらに、若き「友」が死に至る病を得たこと、そして妹の夫が急逝したことが淡々と語られていく。

水禽の歌は、直接生や死を歌ったものではない。しかし、この一連の中に置かれたとき、「限りある生」の気配が、一首からしんしんと立ち上ってくるのを感じるのである。

2012年の「日々のクオリア」、月・水・金の担当を務めさせていただきます。体力も鑑賞力も棚木さんには到底及びませんが、私なりに楽しみながら書いていきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

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