ベランダの縁(へり)に器具もてしっかりと鋏みし布団ながなが垂らす

奥村晃作『青草』(2011年)

 

 ベランダに布団を干すというなにげない行為を歌いながら、何ともいえないおかしみが伝わって来る歌である。たとえば、「器具」という語の選択はどこか変だ。布団を止めてある大型の洗濯バサミ(布団バサミと言うらしい)のことだろうか。それを「器具」と言うことによって、布団を止めるのに何か特別なものを使っているかのような感じが出る。おそらく作中主体は布団をずっと眺めていて、「器具もてしっかりと」というところになぜか意識は吸いつけられている。読者はやや戸惑いながらも、そのちょっとずれたような作中主体の意識を追体験することになる。

 

 そもそも布団を干すという行為を表現するのに三十一文字全体を使っているというのも、通常の作歌セオリーから言うと異例であろう。例えば、干された布団を見ている時に心をよぎった感慨が歌の中に入り込んでもいいような気もするが、奥村はそのようなことはしない。あくまでも布団が干されている様子に、作者の意識は集中するのである。「しっかり」止めてあるから「ながなが」と布団を垂らしても“物理的に”大丈夫なのだろうかと、読者はいらぬ想像までしてしまいそうだ。
 

 では、この歌はただ単に変な歌なのかと言うとそうではない。他人にはどうでも良いことが、自分にだけは気になってしまうことのひとつやふたつを私たちはそれぞれ持っていないだろうか。なぜだが分からない自分だけのこだわり、そういう偏在する意識のリアリティーがこの歌からは感じられると私は思う。

 

 路面切る鋸が伝える振動を全身に受け人は働く
 前向いたまま左右(さゆう)見ず踏切を渡り切る人いないと思う
 藤蔓の枯枝切りては払いゆき気が付くと藤は木(ぼく)として立つ
 死蟬(しにぜみ)は白き腹部を上にして土に転がるケースが多い
 人間の丈に上限ある如く木々にも丈の上限はある
 首都圏に棲む人の足強くなるエスカレーター使わず歩き

 

 それぞれ、ほとんど口語に近く平明な文体だが、どこかに読者を立ち止まらせるポイントがある。引用最後の歌、計画停電のことを「首都圏に棲むひとの足強くなる」と捉えて、しかも大真面目に短歌にしようと考えた歌人は奥村の外にいるだろうか。あくまで真面目な、でもちょっとずれた眼差しが、私たちに世界を別角度から見せてくれる。

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