- 大西民子『雲の地図』(1975)
雪のなかに立つ「われ」の足元に、雪が絶え間なく降り積もっていく。それは楽しい光景ではない。むしろ、白い雪が積もれば積もるほど、寂しさの嵩は増していくようだ。それでは、と語り手は考える。ずっと同じ場所に立ち続け、身じろぎもせず雪に埋もれていくしかない木の寂しさはどれほどのものだろう、と。
表面上は「木などになれず」と打ち消しながら、語り手の心はもう、ほとんど木と同化してしまっている。そもそも、「われ」はなぜ雪の日に一人で立ち尽くしていたのか。どうして足元ばかり見ていたのだろうか。語られることのないその部分が、妙に気にかかる。
大西民子は理知の人である。どんなに悲しくとも激情に身を任せることなく、冷静に観察し、知的に言葉を紡ぐ。
白鳥のプリマ追ひゆく円光のなかを影なる部分も走る
台詞(せりふ)よりやや遅れつつ人形(ギニヨール)の手はうごきたり泣かむとぞ
プリマドンナがスポットライトを浴びて華麗に舞うときも、そのくっきりとした影の方に目が行ってしまう。人形芝居を見るときも、芝居の内容ではなく、「泣くふり」をする人形の動きを追っている。しかし、情の薄い人かと言えば決してそうではない。歌集を読んでいると、人恋しさや苦しさがふっと表面に滲み出てくる瞬間があって、ぎりぎりまで抑制されていた分だけ余計に迫ってくるものがある。
押しつけて机の上に置くときに見知らぬ枝のやうなわが手よ
つらなめて輝ける把手(ノブ)風のやうに開(あ)きていざなふドアなどあるな
出奔した夫を10年間待ち続けた挙句に協議離婚。最愛の妹に先立たれた悲しみを越え、多忙な勤務の傍ら短歌を作り続けた大西民子。輝かしい「向こう側」へと誘うドアに惹かれつつ、どのノブにも手をかけることなく「こちら側」に留まり続けたその姿は、やはり、一本の冬の木と重なるところがある。