油さしの長い触覚/油をさせば/歯車に踊る朝の心だ。

                                                                                 清水信『煙突』(1929年)

 最近、機械に油をさして調子を整えるということをしなくなった。私が小さい頃、大正生まれの祖父は、自転車や扇風機やミシンやらの調子が悪くなったときしばしば油を差していた。幼い私は祖父の指先を息をつめて見ていたものだ。不思議なことに、昔の機械は油を差すことで元通りに動くようになるのである。

 

 清水信は工場勤務が長かったというから、ここに出てくる機械はもっと大型のものであったかもしれない。毎朝、油を差して動きを調整しているのだろうか。やはり「油さしの長い触覚」がおもしろい。油さしのすうっと細く伸びた注ぎ口、そこが触覚のようであり、その先で機械に油を差す。「油さしの長い触角/油をさせば」という助詞を省略する表現は、まるで油さしがおのずから機械まで伸びていっているようでもある。触覚は繊細な器官だが、機械に油を差すという作業にも繊細さが求められるに違いない。細心の注意を払って油を差すと、歯車は軽快に動き始めた。朝の主体の心も軽快に踊るのである。当時の工場労働者の、朝のひとときの感覚が良く出ていると思う。

 

 著者は1900年生まれ。口語自由律の作品を長く作った人である。『煙突』は第三歌集で、自筆・自装のプリント本である。出版された昭和初年はプロレタリア短歌の隆興期でもあり、スローガン的だったり絶叫調だったりする口語自由律の作品も同時代には多かったと思われるが、清水の歌には良質の生活実感や表現上の工夫があり、今日においても読ませるものがある。

 

ほのかな把手(ハンドル)のぬくもり
サイレンが鳴り
ほのかな愛惜を感じながら
機械をはなれる。

 

マルクスより
豆がうまいよ
レーニンより蓮根がいゝよ
弁当のさいには!

 

 機械に「ほのかな愛惜」を感じるのは、労働者としての実感であろう。過剰にイデオロギー的になることはなく、柔軟な思考の持ち主だったのではないかと思われる。

 

鉄橋にかゝつて
青く鳴る汽笛
フオ-クに
空が梳かれて走る。

 

秋はうれしい
切手ほどの窓から
青く-青すぎる空が。

 

めづらしく来客
 瞳から
 声から
 ネクタイから
わたしは街の春をぬすみとりながら話す。

 

くつ下の孔はいゝ
初夏の足が
こんなにも動物的な覗きかたをする。

 

 このような日常の中でふと見える光景やひとコマを、すこし気の効いた言葉で表現した歌も良い。引用の三首目、珍しく来客が来た、その来客は全身で春を連れて来たようにどこか弾んでいたのだろう。その来客から「街の春をぬすみとりながら話す」という主体の喜びが良く分かる。四首目もなんともいえぬ実感がある。靴下の穴から自分の足指が「動物的に」覗いているという。ちょこっと見える指先は自分の体の一部のようにも思われず、小動物のように見えたのだろうか。なかなかかわいらしい一首である。

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