棚木 恒寿


とよめきて悶すぎたる胸の野やたのしき鳥と眠は来ぬる

                                    尾上柴舟『銀鈴』(1904年)

 

 「とよめく」は漢字にすると「響く」。響くように胸の内を悶えが過ぎて行った。恋か、人生上の問題か、悶えの内容はここでは明らかにされないが、とにかく大いなる煩悶が主体のこころを通過して行ったのである。悶えが過ぎたあとの胸を「野」として、そこには楽しい鳥と眠りが来ていると言う。心の苦しみの過ぎた後の感覚を面白く、気の利いた言葉で表現した歌ということになろうか。

 

 その一方で、やや見立てや修辞に過剰感があるようにも私には感じられる。上の句、心の「悶過ぎたる」は野の「嵐過ぎたる」に重ねられていようか。「秋なれば山とよむまで鳴く鹿にわれおとらめやひとり寝る夜は(読み人知らず・万葉集巻一二)」という歌が古典にあり、山が響むまでに激しく鳴く鹿とそれに劣らぬ恋心が歌われているように、心の激しさを言うのに山や野が「響む」というような見立ては、ある意味和歌的なものかもしれない。しかしこの歌ではそこにとどまらず、悶えが去ったあとのことも野の出来事として描かれる。上の句から一転、悶えていた胸の野には楽しい鳥が来て鳴いており、眠りが来るのである。下の句でのさらなる見立ての展開は幾分過剰なようにも感じられるが、個人的な心の苦しさとそこからの解放を、何とか歌の主題として表現しようとした苦心の跡のようにも思える。

 

 『銀鈴』は柴舟の第一詩歌集。金子薫園とともに「叙景歌運動」に関わったという経歴からすると、意外にも浪漫的な表現の歌がこの集には多い。

 

 連れてこし羊を森に見うしなひ立てば楡の香身に迫り来る

 魔のゑまひうつる硯に筆ひたし夜中わが書く世を呪ふ歌

 小さき平和説きしは誰れぞ誰れぞ誰れぞ再び説かむ子あらば刺さむ

 瑠璃の露にてりし眸を夢におひてまたかへり来し葡萄おほき村

 恐ろしき夢よりつづく鐘のおとに暗に傲りの影ふと消えぬ

 

 歌の意匠やイメージや主題が様々で、一言で作風を言い当てることができない作品のように思われる。二首目、「魔のゑまひ」は主体の分身と読んでいいだろうか。三首目とともに心の暗が急にクローズアップされて怖い。四首目は「瑠璃の露にてりし眸」のイメージは分かるけれども、過剰な感じもある。瑠璃の露のようにひかる眸、その眸自体も比喩になっているのか。言葉に言葉をかさねてイメージを作ろうとするあたり、「明星」の浪漫的な詠法の影響もあるのかもしれない。一方で歌全体としての意味はおぼろだ。

 

 歌人であり、国文学者であり、書家であり、ハイネの紹介者でもあった柴舟の言葉の位相をとらえるのはなかなかにむつかしい。

 

 

    *本日も更新が遅れてすみませんでした。お詫び申し上げます。