『冷えゆく耳』後藤由紀恵(2004年)
実生活上では、長く認知症の祖母の介護を経験したという著者である。「にんげんはそう簡単には死なぬゆえ」は介護の続く日常を通しての実感だったのではないか。認知症になったり足腰が衰えても、そのまま晩年が長く続く人生もある。命のはかなさをテーマにした文学は古今東西にあるが、今、目の前にあるのはそのような観念ではなく、現実の祖母の肉体だ。祖母への情が薄いというのではない。祖母の衰えた体を前に、観念や倫理とは違うところでふと発せられた「にんげんははそう簡単には死なぬゆえ」だろう。呟くようでありながら「そう簡単に」の「そう」などはなかなか出てこない言葉と思う。「ゆえ」は因果関係を表すが、ここではその意味は薄く、軽い順接のように下の句につながってゆく。衰えつつ晩年を送る祖母を桜の下にまで連れてきて、立たせてみる。祖母の仕草の詳細は描かれず、ここでふっとカメラが引かれて満開のさくらの下に立ちあがる祖母の映像が浮かび上がる。はなやかな桜と、衰えた祖母と。なにか映画の一シーンのようでもあり、心に沁みる光景だ。
一瞬に狂うのではなく深海の魚の眠り祖母の痴呆は
晶子にもかの子にもなれぬわたくしと祖母とが見上ぐ今年の桜を
はつかなる笑いも必要惚けたる祖母との暮らし君に語れば
今はまだ大丈夫だという言い訳を母はいつまで使うのだろう
祖母の死を予測しあいし母と娘は共犯者めく視線かわしぬ
人は決して子供に還らぬ大人用紙パンツはく骨ふとき脚
『冷えゆく耳』では多くの介護の歌が多く収められた歌集である。しかしながら、歌集全体としてはそれにとどまらず、三首目のように自分を見つめたり、四首目のように恋をしたり、介護のある生活の中での若い日々の心の揺れが詠まれており、どこか開かれた感じのする一冊である。四首目は恋人と介護のことを話題にする時のちょっとした駆け引きのようなものであろう。君に話すときは、会話が重くなり過ぎないためにもちょっとした笑いも必要なのだ。恋人との関係における機微が巧く掬いとられている。
いつまでも終わらぬ若さ厭いつつわが学祭は六度めとなる
ひとりずつ遠いところへ散ってゆくさくらの化身のような友たち
産むものと産まぬものとが集まりてペンギンの顔をして笑いあう
くさはらを振り向かずゆく歓びの馬となりたる友を見送る
大学の嘱託職員として働く日々。二十歳前後の少女らと接しつつ、「若さ」について考えたり、結婚や出産してゆく友を見ながら思い悩んだり。どちらかというと人事についての歌が多く、他者との関係や比較のなかで揺れる感情があるようだ。「ペンギンの顔をして」「歓びの馬」はかなり強い言葉であり、不安やアイロニーを表わしてもいようが、一首としては割と淡白な歌いぶりでもある。
声のみに君を知りゆくこの冬の栞とならんわたくしの耳
われを指さぬひとさしゆびに君がさす空より花のように降る雪
淋しさの葉をしげらせて予定なき週末君に逢わないでいる
喉の奥になにか弾ける気配して雪の降ることのみを告げたり
くさはらに四脚の椅子のこされて六月の陽を座らせており
酔いやすき秋の夜なり木犀の香りのなかへ消えてゆく蛇
相聞歌はつつましい中にも思いが厚い、五首目のような何でもない日常の歌も心に残った。
『冷えゆく耳』は著者の第一歌集。前回、前々回取り上げた生沼・吉野とともに、後藤も筆者と同学年の歌人である。同学年歌人シリーズをもう少し続ける。