どうしても行くというなら行けばいい蝶結びふたつ胸の上にのせ

江戸雪『椿夜』(2001)

 

一読して思い浮かべたのは、幼稚園児か、小学生くらいの子供の姿だ。だんだん自己主張が強くなってきて、「どうしても遊びに行きたい」「どうしても一人で行きたい」などとごねる子を、温かく突き放す母親。そんな関係性を描いていると思ったのである。

しかし、前後の歌をよく読んでみて、すこし解釈が変わった。同じ一連に「ベビーカー」や「汝を横抱きにして」といった言葉が出てくる。ここに登場する子は、まだ立ち歩きもできない赤ちゃんなのだ。とすれば、「どうしても行くというなら行けばいい」というフレーズは、母子が実際に交わした会話ではない。自力で懸命に動き回ろうとしているあどけない我が子を見つめながら、いずれやってくる母子の決別の瞬間を冴え冴えと予感している、そんな場面ではないか。

 

  添いねむるわが胸はがしゆくように寝返りをする子は夜のなか

  こわいのよ われに似る子が突然に空の奥処を指さすことも

 

同じ時期の歌。生まれながらにして親離れ/子離れが完了しているような、ドライな感触がある。出産の歌からして、

 

  砂の城くずれおわりて目覚めれば冬の陽のなか汝はおりたり

 

と、どこか即物的だ(「われ」の身体とは切り離されたところで、「汝」が突然出現したかのよう)。

もちろん、それは心の冷たさからくるものではない。自分の身体のなかから生まれてきた者でさえ、自分とはまったく別個の存在であるという自覚が、寂しくも凛々しい、これらの歌を生んだのだと思う。

 

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