手袋の指が充血したるまま捨てられてゐて舗道かがやく

                    小野興二郎『てのひらの闇』(1976年)

 

 手袋の指が充血するとはどういうことだろう。最初に提示されるイメージはひたすら怖い。まるで、手袋の先に指が残ったまま道に落ちていて、その指が充血しているようである。むろん実際は単に手袋が捨てられているだけなのだが、読後がさわやかな歌ではない。読者の胸を抉り、「うっ」という感じになる一首である。手袋はそれを所有していた人の体を包んでいたもので、人の匂いなどが残るものだ。そんな手袋が充血しているというのだから、所有者だった人の肉体感覚までが残っているというべきか。打ち捨てられることによって、手袋に残る人の肉体感覚や感情までが舗道で露わになっているようである。何となく無残な光景だ。一首からは定かではないが、これは都会の舗道のように思える。都会の路上でふいに剝き出しになる人間の感情を私は感じ取る。それは、手袋を見ている作中主体のものでもあろう。

 

風の中より盗みし画布を木にかけて死の自画像を描(か)かねばならぬ

かさかさの肌の裸体を見られゐるごとくに冬の街ぬけてゆく

光り起つ砂塵の中に湖(うみ)見えて手錠の重さほどの頭痛する

わが顔を塗りつぶしゆく少年の左官がふいにこちらをむけり

蓑虫みのむし目の前が真暗(まつくら)になるときもおまへが揺れてゐる風の中

夏やせの女のやうにビルは建つたそがれてゆく街のこころに

 

 負のイメージや肉感のある歌は、どれも鮮烈だ。四首目、実際の景としては一心に仕事に励む左官の少年がいたということなのだろう。少年が壁などをひたすら塗ってゆく様子を「わが顔を塗りつぶしゆく」というふうに捉える。それは作中主体の妄想でもあり、負の感情の表れでもある。その少年がふいにこちらを向く。その眼差しには、少年の負の感情も読みとれるのである。「ふいに」は、短歌ではしばしば禁句となる言葉だが、この歌ではここで場面が転換しており、作中主体と少年の感情の交錯のなかに緊張感が走る。

 

 

白鷺の一羽が森を翔ちゆけり今日村にふいに喪のあるごとく

鳩舎よりあけがた鳩のこゑはして母を忘れてゐし幾日ぞ

手術後も酒量の減らぬ父のことあげつらふ母もわれも寒しも

 

 愛媛出身という著者の故郷の歌、家族の歌はどれも二重三重に屈折している。観念的でありつつ、どこか露悪的で暴力的な部分さえある。

 

 『てのひらの闇』は著者の第一歌集であり、角川書店の新鋭歌人叢書の一冊として刊行された。歌集の刊行は76年であるが、歌としては56年(昭和31年)から69年(昭和44年)までの作が収められた一冊のようだ。制作から刊行までにややタイムラグがある。新鋭歌人叢書は当時「内向の世代」とも呼ばれた新人が集まったシリーズであるが、『てのひらの闇』にあるのは、そのひと時代前の抒情ともいえる。(影響関係はさておき)むしろ、前衛短歌を横目に見ながらの歌群だったのかも知れない。

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