春の日の男の喉に球根のような突起は光りていたり

 

                                                                     早川志織『種の起源』(1993年)

 

 十代の変声期を経る頃、男性には喉仏の突起が目立つようになる。喉仏は成熟した男性の象徴ともいえ、淡いエロスとして相聞歌の内に描かれることがしばしばある。しかしながら、この一首では喉仏の描かれ方が普通ではなく何ともユニークだ。

 「喉」の「突起」という表現は、妙に物理的な捉え方である。たしかに喉仏は喉の突起には違いないけれど、そのような物理的表現は「喉仏」という言葉から、男性性やエロス等の属性を剥がしている。喉仏はあくまで突起に過ぎないという感じだ。その上で「球根のような」という比喩が何ともユニークである。作中主体は、喉仏と球根のどこに類似性を見出しているのだろうか。何となく、これも物理的形状からの連想であるような気がする。私は、小さい球根(クロッカスとかアネモネとか)を想像した。女の体ならば、なめらかであるはずの喉に小さな球根を付けるように男は喉仏という突起を付けている。それを作中主体は、どこか不思議な目線で眺めているのではないか。その視線、感じ方が何とも面白い。

 喉仏から男性性やエロスという属性を剥がして自分なりの捉えなおしをしているといえよう。しかしながら、(書いたことと矛盾するようなことをすぐに付け加えることになるが)、この歌には間違いなくエロスの感覚も流れている。春の日の球根は、これから花を咲かせるべきエネルギーに満ちているだろう。「春の日の男」の「球根のような」喉の突起と言う時、そこには縁語的な作用により性的エネルギーも感じられる。「光りていたり」という結句の収め方も、何となくそのような読みを喚起するようだ。

既成の歌言葉から、属性をいったん引きはがして言葉を更新してゆく。そんな感じをこの歌からはうける。「球根のように」という比喩により、エロスが再構成されているというのは大げさだろうか。

 

みどりの島生まれんとする気配あり給湯室に湯気たちこめて

白き息吐きつつ陸橋を駆け上るわれは元気な蒸気のちから

ウミウシの突起のように濡れながら午後の浜辺にわたしは屈む

 

 「みどりの島生まれんとする気配」という体感が独特である。給湯室の湯気、ちょっと視界がさえぎられたり、湿度を感じたりしているということだろうが、それを「みどりの島生まれんとする」というイメージと力技で付け合わせたところが、この一首の妙であろう。二首目の「蒸気のちから」も強引だがおもしろい。ジョギングでもしているのか。体が上気する感覚を「蒸気のちから」という。なんとなく「蒸気機関」もイメージされて想像がふくらむ。「ウミウシの突起のように」濡れるという比喩表現も突飛だが、なぜか説得力がある。身体感覚が、歌言葉の遺産にかかわらず直接言葉を選んで来ているようだ。

 

休日のソファーに寝そべるわたくしとこんにゃくの花はどこか似ている

薄茶色の茸刻めばやわらかな雨に大気が崩れるにおい

カメレオンと樹の関係を想う午後ひとりのからだやさしくなりぬ

 

 一首一首の言葉の使われ方に、読者は次々驚いてゆくばかりである。ある種「わがまま」な歌の作りようとも言えよう。

  

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