鳩の咽喉腫れしゆうべは西空の奥ふかくあかあかとにじむ夕映え

 

                              赤座憲久『罪の轍』(1960年)

 

 鳩の咽喉は外から見えるのだろうか。私はあまり鳩という鳥を好まないので、鳩の喉の中を見たことはない。おそらく、それを見たことがある人は少ないだろう。「鳩の咽喉腫れし」というのだから、この歌では鳩の喉の中までがはっきりと見えているようだ。喉の奥は赤いのだろうが、どこかグロテスクな感さえある。そして、その赤の残像を目裏に残しつつ、西空の夕焼けに場面は切り替わる。鳩の喉の赤と関連づけられるとき、夕焼け空も決して美しいだけのものではない。私には、明日の凶を予言するような赤ではないかと思われる。まるで、鳩の喉の内部の赤が一瞬にして夕焼け空に広がってしまったかのようだ。二句までの部分と三句以降の部分が、それぞれのイメージを補い、増幅し合っている感じである。イメージの足し算で出来ている歌と言えようか。韻律的にも、「奥深くあかかかと」が急な十音の破調で、それを定型に近づけて読もうとすると、急にスピードがあがる。ここで生まれる切迫感も、凶なる赤のイメージを増幅しているように思う。

 

磁針は北を指そうとして揺れ救急車ただ疾駆するのみ

 

 方位磁針の針と、救急車の疾駆は本来関係のないものだが、「揺れ」という言葉によってリンクする。それらが「揺れるもの」としてこの歌の中では結び付く。磁針の揺れは、救急車の疾駆を見るときの心の不安感になるだろう。「揺れ」という言葉によって、上の句と下の句の不安のイメージが足し算されるのである。この歌では第三句が丸々欠落しているが、意識的な技法としてそうなっているのであろう。このリズムは不安感を増幅させる。イメージの足し算は幾分過剰だが、そこに著者のロマンティシズムがあらわれているような気もする。

 

 『罪の轍』は赤座の第三歌集。地元岐阜で同人誌運動のさきがけとなる「仮説」に拠り、斎藤史の「原型」創刊にも参加した。発行時期からして六〇年安保の前夜の歌が集められたのではないかと思うが、それが直接テーマになるようなことはない。むしろ寓話的とも言える作であり、寓話の中に息をひそめて物事を見つめている主体の息遣いが感じられることが多い。

 

毒蛾の幼虫まなこすずしくわが想念のあわい這いゆく

草や木が偽装してまろび予言者歩みくる荒野の世紀

秋の野を吹く風が埴輪の眼を鳴らす涙ににじむひまさえもなく

古い門柱を這いあがったかたつむり殻だけ捨て置くわけにもゆかず

峠一つ越えた部落は日陰にて散りやすき花びらを風がよけゆく

白い掌の泳ぐ街中雨にぬれた舗道に流れる電飾のかげ

 

 五首目、峠ひとつ越えた所の部落は「日陰にて」というのだから、どこか取り残されたような集落を想像する。イメージとしては前近代的な集落だろうか、それが主体にとってどのような意味をもつのか半ば分からないのだが、下の句に描かれる景には細部を見つめる妙なリアリティーがあって非常に印象に残る。「散りやすき花びらを風がよけゆく」には、風の通り道を見つける眼差しの繊細さがあり、美しくて象徴的なフレーズであるに関わらず、作中主体の視点がすぐそこにあるような臨場感がある。

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