同じ場所にとどまりたければ走ること(ただし黒鍵は踏まないように)

『町』(2011)

 

※同人誌「町」概要は3月12日の更新参照http://www.sunagoya.com/tanka/?p=7338

 

歌集『町』は同人誌「町」の5冊目、そして最終号として、2011年11月に発行された。発行者は望月裕二郎。本文編集は土岐友浩。これまでの号より一回り小さいB6判。表紙の写真には広々とした青空と、どこかの街並み。電線に吊るされたスニーカーがかっこいい。

扉に記された献辞はたった一言、「――わたしに」。1ページ3首のゆったりとした組で短歌が並べられているが、そのどれにも、作者名が、ない。どうやら6人の「町民」たちが書いた歌がごちゃまぜになっているらしい。

数ページ読んだところで、何とも落ち着かない気分になって(作者名がないというだけでこれほど読み心地が変わるものなのだな)、あとがきを覗いてみる。6人全員が真摯な言葉を寄せているが、どの歌がこの人の歌です、という正解発表がないのはもちろん、制作手順の解説も一切ない。唯一、平岡直子が「町の最後の作品となる本号は、その作成にもっとも時間をかけた一冊である。わたしの目には巨大な顔面のように見える。思えば町はきれいな顔をした人ばかりだった」と書いているのが、かすかな手がかりになるくらいである。

試しに、p.6~7から順番通り引用してみよう。

  

  あたためるように双子が かたつむり首出すとても光りになる前

  手を口にあてて明日をうわさする(よござんすか)手が口となるまで

  ついに何も食べることなく一日を終えてやわらかな歯を磨く

  プリンまみれになって笑えば雲の間の陽射しがプリンをきんきらきんに

  真鍮の橋だねそれは きみの見た夢の話にほほ笑んでいる

  ここで言うきみとは蛙を殺してた青い双子の右利きのほう

 

これまでの作風から、1首目から瀬戸夏子→望月裕二郎→服部真里子→吉岡太朗→平岡直子と予想してみたが……全然違っていたらごめんなさい。この予想が正しいとすると、6首目には土岐友浩が来そうだが、作者の順番は一定ではないようなので、はっきりとはわからない。

一貫したストーリー展開はなく、一首一首が独立しているが、よく読んでみると前後の歌とはゆるく連関していて、たとえば2首めに「口」が出てきたあと、3首目「食べる」、4首目「プリンまみれ」と繋がっていく。4首目の「笑えば」から5首目「ほほ笑んでいる」へと流れ、5首目に登場する「きみ」について注釈を入れるかのように、6首目が始まる。1首目に出てきた「双子」が、6首目で繰り返されるのも見落とせない。

これらは、ばらばらに作った作品を歌集にまとめる際に再構成したものなのか、それとも一首作っては次の人に回す、という具合に作っていったのだろうか。その両方を組み合わせ、徐々に練り上げていったのかもしれない。

 

  ……の、…と言いかけて何事もなかったようにしりとり遊び (p.11)

   私・尻・林檎・五反田・ダマスクス生れの火夫とひと夜ねる・ルビ (p.11)

 

「しりとり遊び」という語から、しりとり短歌に突入(しりとりの中に「尻」を入れてくる細かい遊びが笑える)。唐突に「ダマスクス生れの火夫」と塚本邦雄の引用が出てきて驚かされるが、塚本のパロディはp.60辺りでも再び登場する。

 

  親友はいなくて冬の道ばたの自転車にサッカーボールが当たる (p.41)

  親友の廣川くんがジャムパンを食べているどの廣川くんも

  望月実穂と僕は六年一組で「さん」と「くん」とに呼び分けられた

 

親友はいない→親友の廣川くん→「望月さん」と「望月くん」、という展開だが、果たして3首目の作者は「望月」裕二郎で合っているのだろうか。別の作者が「望月くん」になりきっているという可能性は?……この辺りになると、作者当てもいよいよ混迷を極めてくる。

 

個性的な面々の揃った「町」が、最後にあえて無記名の歌集という形を選んだのは何故なのか。はっきりとはわからないけれど、そこには、短歌の無名性、民衆性とは真逆の意図――たとえ作者名を隠しても、一首一首が紛れることのない「顔」を持っているという、強い自負――があるように感じた。細い街路に迷い込んだり、広場で大道芸の一団に出くわしたり、映画館で隣り合った人の横顔にふと見とれてしまったり……。そんな楽しさが、この『町』にはある。

 

さて、一首鑑賞のコーナーだというのに、全く一首鑑賞らしきことを書かないままここまで来てしまった。

初めに挙げた歌は、短歌の新しい試みを見せ続けてくれた「町」を象徴する一首だと思う。「同じ場所にとどまりたければ走ること」とは矛盾した言葉のようだが、「動く歩道」を進行方向と逆に歩いてみたことのある人、あるいはランニングマシンを使っている人なら、感覚としてよくわかるだろう。『鏡の国のアリス』の赤の女王にも「同じ場所にとどまるためには、全力で走らなければならない」という台詞があり、そこから、いわゆる「赤の女王仮説」(=生物の種は、常に進化をし続けなければ絶滅してしまうという仮説)が生まれている。「生物の種」の部分を「短歌」に置き換えてみるとき、いろいろと考えさせられるものがあるが、私たちを後ろへ後ろへと押し流そうとするベルトコンベヤー状のものが、ピアノの鍵盤であるというところに、「町」一流の遊び心が感じられる。全力で走り続けるのは疲れるけれど、足を前に踏み出していけば、白鍵が澄んだ音色を響かせてくれるのだ。

 

それにしても、これだけ面白い場があっという間に消えてしまったのはちょっと寂しいなと思い、平岡直子の歌壇賞受賞時のプロフィールを確認したら、「率」準備中、とあった。なんだ、まだまだ走る満々じゃないか。

 

 

※今回ご紹介した歌集『町』の批評会が、2012年3月31日(土)の13時30分より早稲田で開催されます。基調発言は我妻俊樹さん、宇都宮敦さん、斉藤斎藤さん、穂村弘さん、水原紫苑さん。総合司会を石川が務めます。定員40名程度ですが、まだ若干席の余裕があるとのこと。詳しくは【こちら】をご覧ください。

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