春の日のななめ懸垂ここからはひとりでいけと顔に降る花

盛田志保子『木曜日』(2003)

 

中学1年のとき担任だった蚊猫先生は、私たちの入学式の日、教室に入って来るや否や「タルタルソースの歌」(「そして、神戸」の替え歌)と「リアルな猫の真似」を披露して生徒の心を鷲掴みにし、その後もユニークな授業と温かい指導で絶大な人気を誇ったが、残念ながら次の年には転任してしまった。

離任式の日、先生は挨拶のなかでこんな話をした。

道を歩いている時、先生の目の前を、見知らぬ母娘が歩いていた。見るともなく見ていると、小さな娘の髪の毛に、散ったばかりの桜の花びらが踊っている。それを見つけたとき、なぜだか妙にぐっときた。

先生の転任とこのエピソードがどう繋がっていたのか、その文脈は覚えていない(当時付けていた日記をひっぱりだせば詳しく書いてあるかもしれないけれど、今は読み返さない)。しかし、毎年今頃の季節になると、「タルタルソースの歌」で騒がしく幕を開け、花びらのエピソードで静かに終わったあの1年間のことを、思い出すともなく思い出す。私は去年、当時の蚊猫先生の年齢を超えてしまった。

 

 

一人きりで鉄棒を握る。腕に力を込めて懸垂をしていると、斜め45度の角度で空に向けた顔をめがけて、花びらが降ってくる。花たちは、きらきらと光りながら「ここからはひとりでいけ」と語りかけているようだ。自分を守ってくれていた小さな世界と決別して、一歩前に踏み出す。晴れやかにして切ない、春の一場面である。

「花」の種類は書かれていないが、公園か校庭に植えられている樹、春の日に散るものといえば、やはり桜だろう。「ここからはひとりでいけ」のひらがな書きが、はらはらと散りかかってくる花びらの様子とよくマッチしている。

 

  桃の枝ペットボトルに活けながらはやく人間になりたあいとおもう

  誰ひとり年を取らないギャグ漫画夕日に塩を撒いて笑うんだ

  われわれは箸が転んでもというか箸の時点で可笑しいけどね

 

『木曜日』にはこのように、青春期の輝きをスケッチした歌が多い。自分が人間未満(妖怪人間?)であるような気分、没していく日に塩を撒く不敵さ、箸の時点で笑い合える輝かしさ。それこそ永遠に年を取らないような世界を、「われわれ」はひととき共有し、そして何度目かの春、「ひとりでいく」日を迎えるのだ。

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