むらさきの桐の花骸(はながら)を累々と敷きたるやうな夕雲にあふ

                        稲葉京子『柊の門』(1975年)

 

 私の住む関西では、桜の季節は最終盤を迎えている。桐の花が咲くまではもう少しといったところだろうか。

 この歌、「敷きたるやうな夕雲にあふ」というのだから、歌の内容を正確にとってゆくと夕雲が眼前にあって、それを形容するものとして「むらさきの桐の花骸」が直喩としてあるということになる。「むらさきの桐の花骸」は眼前にはないものである。しかしそれはいかにも散文的な解釈であって、歌の主眼はむろん「むらさきの桐の花骸」の方にあるだろう。

 桐の花は大柄な紫色であり、それが「累々と」敷くように散っている風景は、どこか異様で不気味である。「花骸」の「骸」という表記もなんとなく、そういうイメージにふさわしいと思う。白秋に有名な『桐の花』があるが、彼の世界のように春の深まってきたころの憂愁なこころを、この稲葉の歌から想像することはない。むしろそのイメージを裏切り、桐の花が累々と落ちているむしろ即物的な無残さとそれに感応する美意識が、この歌にはあると思う。そう思いつつ眺めていると、「夕雲にあふ」が半ば虚辞のようにさえ思えてくるから不思議である。語順と費やす文字数が、そのような桐の花のほうに大きなウエイトをかけている。比喩される内容の方に、作者の美意識がかけられているのだろう。

 

外つ国より届きしカードの黄昏を虔しくあゆむ人もけものも

 

 散文にしてしまうと、この歌は「外国よりカードが届いた、その中には人と獣(犬かなにかだろうか)が写っていた」ということだが、そう翻訳してしまうと面白くない。「虔しくあゆむ」がこの歌のポイントであり、作者の技であろう。カードの中の黄昏を「虔しくあゆむ」ということにより、歩んでいる人と獣に生身な感じというか、臨場感が出て来る。ふつう、写真に写っている人や獣を「虔しくあゆむ」とは言わないだろう。そもそも虔しいかどうかはわからないのだから。しかしながらそれを「虔しくあゆむ」ということにより、一気に歌が生動する。たった一語の効果で、歌が生き生きと読者に迫ってくるのである。

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