病窓に下界を見れば辛うじて犬だとわかるかたちのゆらぎ

廣西昌也『神倉』(2012)

 
第5回歌葉新人賞を受賞した廣西昌也、待望の第一歌集が出た。医師でありアマチュア落語家大川亭可流亭(=カルテ!)の異名も持つという作者の小さな歌集は、冒頭の連作「末期の夢」から饒舌な(しかし不思議と好感のもてる)あとがきに至るまでリーダビリティが高く、上品なユーモアに富み、しかも味わい深い。
「末期の夢」は歌葉新人賞受賞作。当時も話題になったが、今回読み返してみて、構成の妙に改めてぐっときた。
 

  弟よ星が無限に落ちてきて僕らに父がいた夏がある

  いつからが父の夕暮れ右肺の半分がもう水面下なり

  「砂浜に隠した」という笑みながらすぐ昏睡の海に沈みぬ

  ぼくたちのこどものころのしぐさなどゆらゆらうかべているのだろうか

 
おそらくは末期の肺がんで、ほとんど意識もなくなってしまった父。息子は、遠からず父と自分を決別させてしまうであろう暗い「海」の存在を感じ取りながら、病室で看病を続ける。
思い出されるのは、子供の頃に見上げていた父の姿。しかし、眠る父を見守っているとき、時として父と子の関係性は逆転する。たとえば、

 
  触っても不可思議なままなのだろうけれども父を愛撫している

  子供らがはしゃぎまわっている中に子供の頃の父もいないか

 
これらの歌に描かれる父は、まるで小さな子供のように無垢で、か弱い存在である。
死に向かっていくということは、どこか、子供の頃に向かって時間を遡っていくようでもある。〈そのとき〉が接近するにつれて、父をめぐる時間の感覚は危うく揺らいでゆくのである。
こうして父と息子の最後の日々を追いかけてきた読者は、連作の終わりに置かれた一首(あえてここでは引用しない)に、思わずほろりとせずにはいられないだろう。

さて、初めに挙げた、

 
  病窓に下界を見れば辛うじて犬だとわかるかたちのゆらぎ

 
は、連作の中ほどに置かれている。夜、窓から遠く見下ろす路上に、何かうごめくものがある。「辛うじて犬だとわかる」という不確かな表現が、むしろ犬の存在感をむくむくと際立たせている。もちろん、「かたちのゆらぎ」というおぼろげな認識は、「病窓」にいる息子の不安定な心を、確実に反映しているだろう。

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