教科書の詩を読みながらどうしても唄ってしまう子がやり直す

花山多佳子『草舟』(1993)

 
国語の教科書で紹介されている詩が、メロディの付いた歌にもなっていることがある(たとえば阪田寛夫の「夕日がせなかをおしてくる」とか)。反対に、歌の歌詞が「詩」として紹介される場合もある。
国語の教科書に載っている以上、メロディとは一旦切り離して、一個の詩として朗読し、鑑賞しなければならない。けれども不思議なもので、一旦「歌」として覚えてしまうと、節を付けずには読めなくなってしまう。私が小学校の頃にも、ついつい「唄ってしま」って「もっと自然に読みましょう」と注意される子が、少なからずいた。
ただしこの歌の魅力は、単なる「小学生あるある」には留まっていない。生真面目に朗読の練習を繰り返しながら「どうしても唄ってしまう」子供の姿は、太陽の方を向いてぐんぐん咲く向日葵のような、掛け値なしの明るさと伸びやかさに満ちている。

 

  いきいきと子は告ぐるなり登校日の朝礼に倒るる子の多かりと

  玄関より一列に入り来る蟻どちに子ら驚きてひとまず通す

  〈舌の長さの一番は誰〉とわが問えば七人の子が真面目に競う

  デパートにふわふわの帽子さわりいし子が青ざめてふり返りたり

 

子供たちにとっては、見るもの触れるものすべてが新しく珍しい。そして母は、子供たちのすべてを新しく珍しいものとして見つめている。大げさなようだけど、〈奇跡の連鎖〉とでも呼びたいような輝きが、ここにはある。
三首目、懸命に舌を出している子供たちの姿はとても愛らしいが、近所の子を集めて〈舌の長さの一番は誰〉と問いかける母の方もだいぶ面白い。変なお母さんだなーと噴き出した後で、私はなぜだかいつも、ちょっと涙ぐんでしまうのだ。

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