さびしくて渡りにゆくよ真夜中にふくらみながら橋は待ちたり

江戸雪『椿夜』(2001年)   

 

   夜中になぜかひとり寂しくなった、そして作中主体はふらふらと橋を渡りに出かけたのだろうか。「さびしくて渡りにゆくよ」は、普通ならばすこし舌足らずの表現かもしれない。寂しいからといって、一体何を渡りにゆくのだろうかと読者の疑問がわくが、続く「真夜中にふくらみながら」でもまだその正体は明かされない。「ふくらみながら」は感覚的な把握だがその対象が明らかにされないままであり、宙ぶらりんな感じか強く残る。そして結句に至って、この作は橋の歌だったのだと了解されるのである。結句までゆかないと読みが決定しないが、謎解きのような歌だというわけではない。まずは、寂しいので行動を起こそうという衝動があり、真夜中を歩んでゆくうちに風景が徐々に見えて来て、結句で橋に行き着く。結句が「橋はありたり」でなく「橋は待ちたり」である所もうまいと思う。橋に待たれていた、という感覚は大事であり前から待たれていて、いまようやくここに至ったという時間の流れが一首の中に出て来る。寂しいという感情が起こす行動や意識の流れをうまく掬いとっている作品だと思う。「寂しいから橋を渡る」と因果はごく個人的なものの捉え方であり、橋が「ふくらみながら」というのも直感であるが、それが無理なくリアリティーをもって読者のなかに入って来る。

 

速達で届いたような夕闇が試練はひとつでないと広がる

 てのひらのしきりに乾くいちにちを翳ふかくして桜咲きたり

 

 「速達で届いたような夕闇」はかなり直感的な比喩である。速達のように早くあっさりとやってきた夕闇というふうに考えればいいだろうか。そして夕闇が「試練はひとつでない」と、軽やかに呟きながら広がってゆくのである。なぜ作中主体の頭のなかに「試練はひとつでない」というフレーズが浮んだのかは不明だが、その理由を語るのではなくぱっと把握する。二首目、「てのひらのしきりに乾く」という身体感覚がおもしろい。手のひらが湿っていると、緊張しているということにもなろうが、むろんこの歌はそうではない。桜の咲く日になぜか手の平が乾きやすくなっているのであり、そこの因果は直感であろう。感情の流れや、身体感覚が直截な把握で一首にまとめ上げられている。その強引さが時に心地よい。

 

 夜が手をのばしゆく道さわさわとよく揺れる木の下に座れり

 はなやかなぶあつい肉の満月よこちらへおいで泣かせてあげる

 雪の日にすれちがいたるどの人も耳のうしろに闇を隠せり

 ベビーカーを錘のように歩きたるわれの首すじ陽が傷つける

 

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