棚木 恒寿


シルクロード展を出できて見る青葉嬰児のミイラ永遠(とわ)に乾ける

 

                          東洋『春の古書店』(2009年)

 

 作中主体はシルクロード展を見終わって、青葉の下に佇んでいるのだろうか。先ほど見た嬰児のミイラのイメージが強く心に残っており、青葉の下で反芻するのである。美術館から出て来て青葉の下へとシーンは変わっているのだが、嬰児のミイラから、意識は去っていない。おそらく「見る青葉」が巧みであり、主体の視線がいったん青葉へと展開しながら、ふっとミイラのことへと意識が戻ってゆくのである。そのあたりの微妙な心理の推移が面白く、「青葉の下で座って、ミイラのことを思いましたよ」では理屈になり歌にならないだろう。

余談になるが、青葉と嬰児の取り合わせでいうと、

 

五月來る硝子のかなた森閑と嬰児みなころされたるみどり(塚本邦雄)

 

をつい思い出すが、東の歌には反世界を描く塚本とは対照的な、正の方向へのロマンティシズムがあると思う。

 

 

幽かなる音聴いている耳の底眠りの中を荷馬車が通る

 

子の使いし傘を深夜の浴室に広げて妻は花びらを言う

 

渡り鳥に帰らぬ鳥のあるという記事思い出す改札口で

 

函館の公衆電話に忘れたる眼鏡が秋の雲を映すか

 

 

 一首目、夜、床についているのだろうか。覚醒と眠りの間で耳の底では荷馬車の音がしている。荷馬車はかつての主体の記憶にあるものか、何となくその軽やかさが感じられて、快い眠りが来るようだ。二首目、子供が使った傘を浴室に乾かそうとしているのだろう。その傘に花びらがついていて、妻も主体もふとなごんで華やぐのである。三、四首目では、帰らぬ鳥渡り鳥へを寄せ、忘れた眼鏡が秋の雲を映しているのではないかと想像する。どこか心に余裕があり、向日的である。

 

 

秋の陽の絨毯にふと拾いあぐ昔の爪と思われる爪

 

太ることが罪のごとくに責められるこの世の隅に亀を虐める

 

一体となり浴室にいたりけり曇りし後を眼鏡と知りぬ

 

水族館に太く醜き紐を見て生きる喜びを忘れそうな日暮れ

 

憂鬱の漱石が書斎とび出してテニスをしたらと思わせる秋

 

掃除機で吸っても吸っても歳月が部屋に広がる秋の日暮れは

 

 

 四首目、水族館で太くて醜い深海魚でも見たのだろうか。「生きる喜びを忘れそうな日暮れ」はユーモアであり、逆に「太く醜き紐」への親愛さえ感じられる。読者は安心して「太く醜き紐」という比喩を楽しめばいいのである。五首目、かの憂鬱の漱石さへテニスをしたくなるような秋の日。自在な想像力を楽しめば良いのだろう。著者らしい理知やユーモアの歌であり魅力的だ。