標本ビンに茸がふとる研究室を辞める話につき合いており

 高瀬一誌『レセプション』(1989)

 
高校の頃、部活動の一環でキノコを観察したり、化学室の棚でヒラタケを栽培したりしていた。私の出身校の名前には「柏」の文字が入っているのだが、ある日突然、シンボルツリーである柏の木の周りにコタマゴテングタケが大きな菌輪を描いて生えていた時は、嬉しくてその場で小躍りした。コタマゴテングタケは毒キノコだが、淡い黄色の傘に白い斑点があって、見た目は愛らしいのである。まだ傘の開いていない鶏卵みたいな形のコタマゴテングタケを抜いて、乾燥しないようにビーカーをかぶせておいたところ、翌日にはすっかり成長して、ビーカー一杯に美しい傘を広げていた。あのときのわくわくする気持ちは忘れられない(ちなみに高校時代、私は一切モテなかった)。

 

そんな経験があるので、「標本ビンに茸がふとる」というと、私(だけ)は何となくイメージできてしまうのだが、よく考えてみれば、異常な事態である。標本ビンとは採集した後の、言ってみれば既に死んだものを入れておく器具である。その中でむくむくと太り続けるキノコ。怖い。

もちろんここでいう「茸」とは暗喩の類であって、大学の研究室という閉鎖空間の中でなかなか評価を得られずにいる人などを想像してみると、しっくりくる(文系理系を問わず、こういう立場に苦しむ人はたくさんいるはずだ)。語り手は、鬱々とした「研究室を辞める」話に半ば辟易しつつ、しかし同情をもって耳を傾けているのであろう。

この歌は比較的定型に収まっている方だが、高瀬一誌の短歌といえば、わざわざ関節を外してかかるような破調がトレードマークだ。

 

  ぎっしりと椎茸のびる夢からさめてもう三時間すぎたり

 

初句・二句までは定型に沿っているが、その後ずるずると破調になだれこむ。いびつなリズムと、「ぎっしりと椎茸のびる」夢の不気味さが相まって、何とも居心地の悪い気持ちになる。かと思えば、

 

  人間に最も近き植物は茸なりしとあるを書きとむ

 

という歌もあって、このいびつさも人間らしさのうちなのだな、と妙に納得させられるのである。

 

 

さて、いつまで続くのかとお思いでしょうが、来週の月曜までキノコ短歌シリーズを続けます。

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