棚木 恒寿


桔梗のむらさきのいたさ病む胸をすりよせて石の墜つる音きく

 

加藤克巳『螺旋階段』(1937年)

 

すこし解釈に迷う歌かもしれない。目の前に紫色の桔梗が咲いている。その紫から「いたさ」を想像する。それは肉体的な痛さか精神的な痛さか、病むみずからの胸を桔梗の紫にすり寄せて、桔梗の中を墜ちてゆく石のさびしい音を聞くのである。どこかで、句と句どうしの因果や、てにをはが省かれているようで、やや解釈がぶれるうただろうか(一応私なりの読みをしたがおそらく他の解釈もあるだろう)。フレーズとフレーズの因果というよりも、言葉から言葉への連想で歌が出来ているように思われる。なんとなく、一首の中での場面の展開が早いように感じられるのもそのせいだろうか。

解釈のぶれと高い観念性に迷いながら、私がこの歌に惹かれるのは、「病む胸」「石の堕落つる音」などに、主体の翳を感じるからである。「病む胸」の身体性、「石の堕つる音」にある孤独はどこか切実感をもって迫ってくる。作品の奥にある主体の内実というものを思う。

 

葩にふれ 飛行するあさ 海の淡淡(あはあは) とほいもはや揺れの輪となれ

 

陰翳がいくたびとなくテラスを過ぎ石卓に白い花とわれとひさし

 

この歌も場面の展開が早い。主体が鳥か飛行機のような視点となって、花びらに触れ空を上昇して海を見下ろし、結句では地上の風景が「揺れの輪」となってほとんど埃か何かのように小さく見えている。句と句が空白で区切られてどんどん場面が展開してゆくのは異例の文体であるが、この文体によって飛翔のイメージが体感的に定型で歌われている。まるで映像を見るようだといえよう。この歌も、てにをはが少なく言葉がどんどん連想でつながっている作りである。短歌としては珍しい作りながらも、そのイメージと体感にはリアリティーがある。二首目も、時間の展開が早い。テラスの石卓と白い花とわれを過ぎてゆく陰影は、雲によってもたらされるものだろうか。まるで早送りで雲の流れを見ているようである。

 

 

朱(あけ)薔薇を剪れば庭いっぱいに風ひかり号外へおとすけさの水滴

 

薔薇花からあふれでてくるあさのにほひ完全にぬけきったわが頭(ず)を叩く

 

竹籔と田圃のあひの径あをし足のうらより蛇のなきごゑ

 

夜の底から青い声反響(かへ)るすりよって病犬は井戸へ月を落しき

 

 

加藤の歌は、シュールレアリズムなどと語られることも多いが、その飛躍するイメージの背景には、確かな心理や体感や主体の内実が感じられる。また、そのような歌に私は惹かれることが多い。