山崎方代『右左口』(1973)
判子は小さい。けれども、紛れもなく何かを証明するものだ。ただの紙切れにそれを押すことで、何らかの事実が確定してしまう。「判このような」とは、さりげないが動かしようのない感情のことだと解釈した。
自分で押すのではなく、人が押すところもポイント。あくまでも「押してもろうた」だから、無理矢理寂しさを押し付けられたというニュアンスではない。むしろ、人から受けた親切や、礼儀にかなった行動のなかに、寂しさを読み取ってしまったという感じだろうか。
もしかするとこの歌は、現実に誰かから判をもらったときに作られたのかもしれないが、そこから、生きることの感慨をぐいっと引き寄せてくる力がすごい。方代のトレードマークであるトボけた文体も、寂寥感に拍車をかけている。
判子の出てくる歌をもう2首。
舌の先にてよくあたためて方代の名前の下に印赤く押す
こちらは、自分で自分の名前の下に判を押すパターン。「方代」という人間のことを、改めてよくよく見つめ直し、「俺は俺でしかないのだ」と寂しく肯定している。
亡き父の判この名を削りとりその子の名前をいれている
こちらは、自分のことを「その子」と突き放して描写している。父のいない寂しさと、亡き父の代わりを生きているような心許なさが感じられ、味わい深い。