古い付箋の位置をずらしてまた戻す記憶のうらの蛇を見しごと

                                        山下泉『海の額と夜の頬』(2012年)

 

 昔読んだ本を読み返したのだろう。以前挟んだ付箋の位置をずらして、読んだあとそれを元に戻す。付箋を挟んだ時の自分の、記憶や感情がふとよみがえる。「記憶のうらの蛇を見しごと」という比喩は生々しい。蛇の体の生々しさから、遠ざかっていたはずの過去の自分が、なぜだかすぐそこにあるように立ちがあってくる。この比喩は対象(過去の私)をぐっと引き寄せて来ているようだ。対象をぐっと摑んでくるような不思議な比喩であり、本を読み返すときの、意識のありようのリアリティーがあると思う。

 

 きょうだいに通じるのみの会話あり蛇の入りゆく樹間の夕べ

 

  同じく蛇の歌から。上の句「きょうだいに通じるのみの会話あり」は、一般的な事柄とも言えようが、下句の「蛇の入りゆく樹間」で兄弟の関係性や会話の空気までが蘇るように思う。実際に兄弟の前で蛇が樹間に入ったのかどうかは問題ではないだろう。兄弟の会話の状況を語るときに、「蛇の入りゆく」を導いてくることで、空間と感覚のリアリティーが生じているようだ。

 

 さむいからもういこうよと七歳の男の子の声風にはずれゆく

 帽子が重いと鏡を出ずる母ありて帽子の影は過去に落ちたり

 ナナカマドの秋の赤い実見えておりいきいきと死者の眼を借りて

 鳥居には寄贈者の名のありしゆえそこを裏面と思いて抜ける

 

 一首目、男の子は道端で見かけた少年だろうか。「さむいからもういこうよ」という声、その声が「風にはずれゆく」で歌になる。ややイレギュラーな「はずれる」という動詞の選択は印象的で、それゆえに少年の声が主体と読者の脳裏に長く残る。そこに、男の子の声を聞いた時の臨場感とでもいうものが再構成される。四首目、「鳥居には寄贈者の名のありしゆえ」は細かい観察である。そして、下の句「そこを裏面と思いて抜ける」には自分の行為を自分で観察しているような感じが少しあり、やや時間の過ぎ方もゆるやかだ。鳥居を抜けて行くときの、一瞬の意識の流れがクローズアップされており、感覚のリアルさがある。

言葉が計量され尽くした詩的な作風であるが、どこか現実や体感、意識のリアリティーが一首に宿っている歌が多い。

 

そこにいるのは月ね、と言って拳から指をいっぽんいっぽん起こす

黄葉の散りて小暗(おぐら)し帽子ぬぐ兵士のように暮れゆく窓は

何をしていても過ぎゆく風景に蝶番あり時折ひらく

 

 描かれる景は現実から遊離したメルヘンではない。三首目、蝶番の細部が描かれているわけではないのに、どこか手触りが感じられるのはなぜだろう。

 

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