土屋文明『ふゆくさ』(1925)
人に対して冷たい、というコンプレックスがある。いや、冷たいというのはちょっと違うかもしれない。人間のことは好きだ。この人面白いなあとか、もっとよく見たいなあとか、そういう興味ならば売るほどある。問題は、優しく寄り添ったり気遣ったりすべき場面でも、ついつい興味を優先してしまうことである。ファーブルが虫を見るときの目みたいだ、と評されることもある。
この前、友だちの赤ちゃんを見に行ったのだが、にこにこしていた赤ちゃんが急に泣き出したとき、私がとっさに放った一言が、
「でも、泣いたところも見たい!」
であった。お腹が空いてるのかな、眠くなったのかな、といった実際的なことに頭が回っていないばかりか、赤ちゃんやその母を気遣う意識も薄い。このとてつもなく愛らしい生き物がどんな顔をして泣くのか、文字通り「見たい」と思ってしまったのである。
土屋文明という大歌人に何となくシンパシーを感じるのは、文明の歌にも、どこか「興味優先」の気配があるからである。
初めに挙げたのは、師である伊藤左千夫の死に際して作られた歌だが、「先生はかけ衣(ぎぬ)の下に動くがにみゆ」という把握がオリジナルだ。悲しみの中にあっても情に溺れることなく、どこかクールに観察している様子が伝わってきて、どきっとさせられる。
家族を詠んだ歌からも幾つか。
答へせぬ吾(われ)にもの言ひその末を独語(ひとりご)ちつつ祖母(おおはは)は寝る
いや、そこは横目で観察してないでちゃんと返事しようよ、とツッコミを入れたくもなるが、その後に、
けふ一日(ひとひ)答へせざりし悔い心(ごころ)海をみせむと夕まけていづ
語りつつ浜にいづればおほははの凪に据われる船をよろこぶ
が置かれていて、ちょっとほっとする。
弟は友に別れをよび居しがいつか真似居る郭公のこゑ
大き家にめざめて吾児(あご)はよろこべり山羊をよび花をよび鶏をよぶ 90
弟や子供が温かく、かつ生き生きとスケッチされている。