黒瀬珂瀾『空庭』(2009)
※「私」に「わたくし」とルビ
雪国の人にこんなことを言ったらのんきすぎると怒られてしまうかもしれないが、雪が降って、全く積もらないまま溶けてしまうと、ほんのり残念な気持ちになる。ちぇ、根性なかったな今回の雪は、という感じ。
雪は、次の雪が積み重ならなければあっという間に消えていってしまう。この歌は、その雪のはかなさに、あるようなないような〈私〉(=語り手)の輪郭を重ねてみている。
誰もが自分の輪郭をくっきりさせたいと思っている中で、「見なくてよいぞ」と言い切ることは、積み重ねていく時間よりも一瞬の美しさに賭けようとする、強い美意識の表れであるように思える。
もっとも、わざわざ〈私の輪郭〉と括弧書きしているのは、短歌の批評用語としてよく使われる「私性(わたくしせい)」への目配せという意味もあるのだろう。「私が発する言葉の中に、作者の影など探さなくてもちっとも構いませんよ。積もらない雪のように、その場その場の思いつきを歌にしているだけなのですから」、と。そのような文脈だとすれば、だいぶシニカルにも読める一首である。
一月三日『マイノリティ・レポート』
ディストピアとは何処ならむしろたへの雪ふる果ての我が眼の底か
一月五日 コンタクトレンズ紛失
見えすぎる世界もいやでコカコーラ飲みつつ歩む闘技場まで
一月七日 コンタクトレンズ発見
雪は雪待たず溶けゆき〈私の輪郭〉などは見なくてよいぞ
日付を付した連作「去年今年」から、「見る」ことに関する歌を引いてみた。特に、一月五日の歌と七日の歌は、対のようになっている。コンタクトレンズを紛失した日には、「見えすぎる世界もいや」と世界の方を拒否し、コンタクトレンズが発見された日には、今度は〈私〉の存在の方を相対化してみせる。
2日間コンタクトなしでどうやって過ごしたのだろう、という卑近な興味はおくとして、語り手は、目に見えるものの確かさをさして信じてはいない。なぜなら、この人はよく知っているのだ。ディストピアもユートピアも、外部ではなく、自分の心の奥深くに広がっているものだということを。