胸うちに棲みつく獣起きるなと願ひつつ今日の会に出でゆく

 

                      小西久二郎『湖との訣れ』(2011年)

 

 歌会か何かに出かけるのか。主体の胸のうちには獣が棲んでいる。その獣が目覚めないように、自分自身を宥めつつ今日の会に出てゆくのである。獣とは何であろう。ひょっとすると、具体的には胸の病気か何かかもしれない。あるいは、主体のこころの内の何かだろうか。自分の心の内に暗いものが潜むことを主体は知っている。何かの拍子に心が乱れるようなことがあるのかもしれない。そんな、自分自身を宥めるようにして、外出をするのである。

 

 

 『湖との訣れ』は昭和四年生まれの小西の第八歌集である。八〇代を迎えての日々が平明に詠まれている作が多いが、老いを確認しつつある日常の中で心をよぎる不安や心理の機微がふっと浮き上がってくる歌が心に残った。

 

 

日照の時間少なき梅雨期にて人間も虫も狂ひてゐむか

 

生命に別状なきも一か所の悪ければ弱き人間とふは

 

いつかくる湖との訣れを思ふ宵雪おこす風雨戸をたたく

 

鴨もさり人々逝きて春の来るわれとどまりて何なすといふ

 

 

 日照時間の少ない梅雨時、曇天の下では人間も虫も狂っているのではないかという。「人間も」の中には主体自身も含まれるだろう。「人間も」というふうに自分を半ば客体化しつつ、「狂いてゐむか」と現在進行形で心は苦しみの中にある。二首目は、前後の歌からすると足の調子の悪さのことであろう。命に別状はなくとも,体の一箇所に不調があれば,人はそこばかりを気にしてしまい,うまく日常を送れなくなることがある。「悪ければ弱き」という因果は説明ではないだろう。一箇所が悪いとそれだけでさまざまなものがうまく回らなくなる人間の弱さ,それに直面する主体の姿がふっと浮き上がる。

 三首目、四首目は琵琶湖の辺で長年居住してきた作者ならではの作か。「湖との訣れ」は自らの晩年を意識してのものであり,「われとどまりて」には「われ(この世に)とどまりて」が隠れている。

 

三十一(みそひと)のこの短詩型に大きなる男が悩む来る日来る日を

 

八十路越えなほ短詩型にしがみつく憐れなるかなわが影みれば

 

本堂で徹夜で歌を作りゐし昭和初期の学生みな影のなし

 

 

 短歌との長い付き合いを振り返っての歌であろう。「本堂で~」の作は,作者が師事したという米田雄郎らの姿か。「みな影のなし」に,若者の姿がくっきりと浮かぶ。

 

 

幸(さきは)ひに濠にしだるる満開の花を見たるも妻には告げず

 

 

 妻に花の満開を告げなかった理由はなんだろう。それは作品の中では保留されているが、そういうところに,心理の機微がふっと現れるように思う。

 

 

 

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