石川 美南


胃からりんご。/りんごの形のままでそう。/肩はずれそう/この目。とれそう

今橋愛『O脚の膝』(2003)

 

今年があと10日もないなんて、何かの間違いじゃないだろうか。年賀状も買っていなければ、部屋はどこもかしこも荒れ放題、読むはずだった本は山積みになっており、ダイエットは挫折気味、とっくの昔に提出するべきだった締切A、B、C……Zは全く目途が立っていない(ごめんなさいごめんなさい)。こうやって積み残しを数え始めると、花山周子の「わが部屋を片付けること思いつつホラー映画になりてゆくかも」(『屋上の人屋上の鳥』)ではないけれど、ホラー映画ばりにキャーッと声を上げたくなってくる。

 

年末で焦っているから、という訳でもないが、この頃よく今橋愛の短歌を思い出す。彼女の歌は、キャーッと声を上げたい寸前の切迫感や苦しさを、誰よりもうまく捉えていると思う。

冒頭に挙げた歌、歌集での表記は、

 

  胃からりんご。

  りんごの形のままでそう。

  肩はずれそう

  この目。とれそう

 

と4行書きである。緊張のあまりか悲しみのあまりか、身体がバラバラに壊れてしまう寸前の状態を、ブツ切りのリズムと多行書きによって絶妙に表している。りんごがりんごの形のまま胃から出るとは、かなり大胆な表現だが、身体に直接訴えかけてくるものがある。

 

  たばこ、ひるね、おふろ、カステラ、闇、じっとしていられない、たばこ、たばこ

 

  ねむれずにひやあせかいているときの

  小鳥けんきょでもろい

  かわいい

 

  お花見にいきましょうね

  日曜の昼間ふたりでね

  もうしんどいね

 

1首目、「たばこ、ひるね、おふろ、カステラ」までは呑気そうに見えるが、「闇」に至って世界の見え方が反転する。語り手の心は、ひるねをするときも、カステラを食べているときも、決して安らいではいなかったのだ。

2首目は、小鳥の震えが何ともいじらしい。

3首目、優しい語りかけの後にふっと漏れてしまう「もうしんどいね」が切実に響く。

 

ところで、今橋愛の歌はどちらかといえば一首一首で取り上げられることの方が多いけれど、『О脚の膝』は1冊を通してひとつの緩やかなラブストーリーとしても読むことができる。

 

  そこにいるときすこしさみしそうなとき

  めをつむる。あまい。そこにいたとき

 

  うすむらさきずっとみていたらそのようなおんなのひとになれるかもしれない

 

  ゆれているうすむらさきがこんなにもすべてのことをゆるしてくれる

 

と始まった歌集は、様々な恋の場面や心の動きを写し取った後、

 

  うしろてに

  てすりさがしても

  きたみちは砂です

  思いだせない本です

 

  もうちがうひとにならなくてよくなった

  とたんこんなに耳がしずか。

 

と静かに閉じられる。「そのようなおんなのひとになれるかもしれない」という漠然とした望みは、ついに叶えられないまま終わるのだ。

「そこにいるとき」は、一瞬の後にはもう「そこにいたとき」に変わってしまう。けれども、その一瞬一瞬の甘さや苦みは紛れもない。『O脚の膝』を読み返すことは、過ぎてしまった一瞬の尊さを思い返すことに似ている。

 

  きゅうかくが

  ばかになるまえに

  記憶には

  パセリのしおりをはさみこむこと