スパンコール、さわると実は★だった廻って●にみえてたんだね

穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(2001)

 

世の中はクリスマスイブということなので、星の歌を(とはいえ、以下には結構さみしい記述が続きますので、ハッピーなクリスマスを過ごしたい方は後日ご覧ください)。

 

色とりどりのスパンコール。その光に惹かれて触れてみると、チクッと棘のようなものが指に突きささった。●型だと思っていたのは、目にも止まらぬ速さで回転する★型だったのだ。

今さら説明不要かもしれないが、『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』は、作者・穂村弘が「まみ」という女の子からもらったたくさんの手紙にインスパイアされ、「まみ」をモデルにして短歌を作った、という設定の歌集である。

●に見えるほど速く回るスパンコールというものが、現実にありうるのかどうかはよくわからないが(たとえば、スパンコールだらけの服を着た人が高速スピンをしている、というようなシチュエーションも考えられなくはないけれど、この歌の読みとしてはちょっと無理がある)、ここではキラキラした光と、その光に恐れず手を伸ばす無防備な語り手(=「まみ」)が織りなす世界を味わっておけば良い。「さわると実は」はかなり拙い言い回しだが、「まみ」の肉声を表現するために、わざと選び取られたものだろう。

無防備、と書いて思い出したが、穂村弘には次のような歌もある。

 

  呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる 『シンジケート』

 

この歌の場合、火を火と認識できないまま見とれている無防備な語り手(たぶん男性)と、「火よ」と教えてくれる「貴方」(たぶん女性)、二人の世界が描かれている。ヘレン・ケラーに「ウォーター」を教えるサリバン先生のイメージを、熱い恋の場面に転換してみせた、美しい一首だ。

一方、スパンコールの歌には、「それは●ではなくて★だよ」と教えてくれる「貴方」(男性)が存在しない。語り手(=「まみ」=女性)は、たった一人で光に触れ、その正体を(指先の痛みによって)確かめる。聞き手である「穂村弘」は、後日、手紙の中でそのことを知らされる存在に過ぎない。

くるくる回るスパンコールというキッチュで愛らしいものを描いていながら、この歌がどこか切ないのは、そうした「一人きり」の感覚が一首を支配しているからではないかと思う。

 

『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』から、スパンコールの歌をもう一首。

 

  顔中にスパンコールを鏤(ちりば)めて破産するまで月への電話

 

「破産するまで」の勇ましさと、電話する相手の遠さが、★型のスパンコールの歌と共通している。ここでも「まみ」は一人きり。スパンコールの輝きが、ひたすら切ない。

 

  夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう

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