石川 美南


断念の思いきっぱりとさびしきに痩せたる川に冬の底見ゆ

馬場あき子『桜花伝承』(1977)

 

「断念」という言葉には強い響きがある。「諦め」よりもずっと決然とした、決して後ろを振り返らない感じ。

語り手が断念したこととは何だったのか。それはわからない。いずれにせよ、「さびしさ」を感じているのは、断念した対象に思いを残しているからではない。何かをきっぱりと断念してしまった自分の心の強さ・潔さを、どこか寂しく噛みしめているのである。季節は真冬。水量の少ない川を見下ろせば、冷え冷えと川底が見えている。

明るい単語の一切出て来ない歌だが、不思議なことに、陰鬱さは全く感じられない。それは、語り手が川の底から、また、自らの心の動きから、一瞬たりとも目を逸らしていないからなのだろう。寒い冬のなかでも最も冷たい川底は、しかし、どこまでも澄み切って濁るところがないのだ。

 

  植えざれば耕さざれば生まざれば見つくすのみの命もつなり

  桜月何ほしやともなく過ぎてまなこは冷えよ逝くものをみん

  喪の似合う齢となれり夕映えの山はあらわに見えわたりつつ

 

「見る」歌を引いてみた。いずれの歌も、曇りのない目で見つめることが「よく生きること」とほとんど同義になっている。

1首目の「植えざれば……」は、私が高校時代に愛唱していた歌のひとつ。「見つくすのみの命もつなり」という宣言が高らかに響く。

2首目・3首目、死からも目を逸らすことのない、眼差しの力強さにしびれる。

 

  論分けて一夜ありしが朝川をゆけばきぬぎぬの思いただよう

 

2句目までの決然とした雰囲気と、3句目以降の柔らかさの対比が印象的。

男と四つに組んで論争し、決して折り合うことのなかった一夜。しかし、朝の川を渡って帰っていくとき、胸に何がしかの情感が湧きあがってくる。
但馬皇女の「人言を繁み言痛み己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る」(万葉集)の本歌取りだが、元の歌は必死な恋を歌っているのに対して、こちらは戦友を労わるような、ほのぼのとした心情が歌われている。