棚木恒寿『天の腕』(2006)
木の下を行く人。木漏れ日にところどころ照らされて光るとき、その顔は、目・鼻・口といった本来の役割も、喜怒哀楽の感情も失って、ただ奇妙な凹凸のように見える。
はっきり寂しいというほどのことではない。けれども、語り手は、そんな「人の顔」から、さびしさの先ぶれのようなものの気配を微かに感じ取っている。
この歌に出てくる「人」とは誰か。たまたま通りかかった人と捉えても構わないけれど、やはりここは、語り手にとって親しい人(恋人?)と解釈しておきたい。よく見慣れている顔だからこそ、普段と異なる陰影を帯びたとき、敏感に反応してしまったのではないかと思うのだ。
誤訳にも程があるよと語りたく桜並木の明るさの下(もと)
ひたすら明るい桜並木の風景だが、「この文章、誤訳にも程があるよね」「ほんとにひどいね」などと言い合える気の置けない相手は、今、傍らにいない。春の光が眩しければ眩しいほど、人恋しさは膨らんでゆくのである。
『天の腕』には、
東方に木が生えているという記憶沈めてむかう学校がある
馴(な)寄りつつ揺らぐ生徒の小波あり上澄みをゆく午後の数学
学校にメタファーとして沼を置く、深泥に伸ばす足の感触
六月は鳥の羽ばたき多き月こころみだれて一人が休む
など、数学教師の日常を題材にした歌が多く収められているが、生き生きと現場を読み込んでいるというよりは、内省の深さに特徴がある。
「馴寄りつつ揺らぐ生徒の小波あり」「こころみだれて一人が休む」など、あまり生徒に感情移入せず、一定の距離を保つクールな表現が目立つが、不思議と冷たい印象はなく、むしろ、そのスタンスに誠実さを感じる。
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今年の「日々のクオリア」はこれで終わりです。
暴投に次ぐ暴投、度重なる昼夜逆転、大変読み苦しい連載になってしまい、申し訳ありませんでした。
ほとんど「日々のクオリア」を中心に回っていたような一年間でした。貴重な機会をいただき、本当にありがとうございました。来年も、皆様にたくさんの良いことがありますように。
石川様。1年間、本当にお疲れ様でした。何かと話し足りないこともございましょうが、それらは日と場所を改めて伺うことにいたします。
それでは、今年も良い1年でありますように。