都築 直子


コカ・コーラじんじん甘し身のほどの泪の薄くにじみくるまで

雨宮雅子『水の花』(2012年)

 

コカ・コーラを飲んだら甘かったというだけの歌だが、日常のありきたりな場面を切り取って大人の色気がただよう。「コカ・コーラ」がいい。「じんじん」がいい。そういえば、山本リンダが昔うたった曲に「じんじんさせて」というのがあった。サビの部分はこうだ。「だめだめ女を口説くのは/どこにもあるよな手じゃ駄目よ/心がじんじん/しびれてみたい」(作詞 阿久悠)。ある年齢以上の読者だったら、時代を越えた二つの「じんじん」が頭の片隅で響きあうかもしれない。

 

歌は「じんじん甘し」と二句でいったん切れ、「身のほどの」と続く。さらりと挿入されているが、「身のほどの」に技がある。凡手なら「うつし身の」「おのが身の」「わたくしの」などとやってしまうところだ。作者の年季を感じる。

「身のほど」は、「身の程知らず」や「身の程をわきまえない」「身の程を知れ」のように使われる。自分の分際ほどの意味だ。「身のほどの泪」には、こんな分際の私のような者の泪、といった自己卑下のニュアンスがただようだろう。「コカ・コーラじんじん」と通俗性たっぷりにうたい起こして、「身のほどの」と玄人の語彙につなげる。ことばのレベルの落差が、一首の読みどころだ。なみだは「涙」ではなく「泪」を使う。この字から「涙」と違う情緒を読みとるか、または何も読みとらないかは読者次第だ。アメリカ文化の申し子コカ・コーラの甘さに身をゆだねる女。雨宮雅子の歌がみなそうであるように、この歌もまた姿よくかっこいい。

 

煙草の歌も印象にのこる。同じく『水の花』から。

 

煙草すふ午後を寂しき影となりわれに近づくテレーズ・デスケイルウ

憩ふとき指にはさめる熱きもの煙草をわれはみづから嘉す

 

*二首目、「嘉」に「よみ」のルビ。