吉野 裕之


にがき夏まためぐり来て風が揉む無花果に不安な青き実の数

角宮悦子『ある緩徐調』(1974年)

 

端正な作品だ。角宮悦子の最初の歌集『ある緩徐調』から引いた。

 

つばさ絶たれ鷹は曇天支えをりわれの眠りに続く曠野に

われのみのものと思はぬに寝室へ葱にほはせて行く母憎む

ナイフ研ぐをひそかに好む烈風の冬空よりもわれの渇けば

嘲りのごとくに屋根へ落ちて来る風あり膝を曲げて眠れり

陽の中の母が白布に鋏入れ何より走り来るわが恐怖

 

一冊の巻頭にはこうした作品が置かれている。若さゆえの気負いと生真面目さが、その痛みを主張している。

 

抱へたる薊に刺されて乳房あり告白するときめてはをらぬ

夫よりも激しき動悸うちながら月光のなか樹液がのぼる

あたたかくまつはる息に目を閉ぢぬ箱の林檎の匂ふかたはら

刃を当てるごとく触れ来る一枚の手にししむらは統べられてゐる

 

とぎ汁がいそいそ土管を噴きこぼれ此の道われの住むところある

凱旋のごと来る茜に染まりつつ二合の米を水に澄ませる

新聞紙に包み手渡されし鶏骨の冷たき感触抱へて帰る

いつまでも冷えの退かざる指先に揃へてきざむ花まじる菜を

 

一冊には、性と食に関わる佳作がすくなくない。性と食。生をもつものにとって、前者は種族の、後者は個体の維持に不可欠な、つまり生理である。人は文化によって、ほかの生をもつものと異なる。人は、性も食も生理の水準から文化の水準へ移行させた。そして、多くの領域の文化を創造した。

角宮は、性も食も、生理の水準、あるいは生の基本の水準で受け止めていく。苦しいことだろう。なぜなら、それは自分と真向かうことだからだ。文化は人が創造した。だから、人=他者を語ることができる。しかし、生理は自らを語らざるを得ない。

 

傷口のオキシュフルの泡見つめつつ突然堕ちたきわたくしがゐる

跣にて珈琲の豆踏みつけて行きたり汝は陽の射す床を

卵(らん)を持つ魚が遡上する夜を爪先そろへ眠りゆきたり

 

そして角宮は、肉体を詠む。肉体は、痛みを増幅させる。肉体は、精神の増幅器である。傷口。跣。爪先。肉体の、こうした鋭敏な部分で感受していく。痛みは、強く強く増幅される。

 

にがき夏まためぐり来て風が揉む無花果に不安な青き実の数

 

実は身なのだろう。不安な青き身。青く不安な夏の無花果は、しかし秋には、美しく豊かな実になっていく。

 

ひねもすを山ぶだうのつるに籠を編む 君は久しく街には来ない

抽出しにかなかな蝉を入れしまま出でしかの村おもひ起せり

かまきりが南瓜の葉つぱを歩く音 ま昼の底にかそけく聴こゆ

照りつよき橋のうへにてかうもりの翅のいろなる傘をひらきぬ

カーニバルを抜けて昭和の路地裏にまよひ入りつつ風鈴の音

 

「はな」第133号(2008年6月)の作品「夕焼工房」23首から引いた。ゆったりとした作品たち。たとえば、一首目。上句と下句が当たり前に結びついているようにも思えるが、上句に置かれた助詞「に」に気づくと、けっして平凡でないことがわかる。「山ぶだうのつる」と「籠」との関係が「に」によって時間を抱え込み、下句に美しく響いてゆく。

角宮は、美しく豊かな秋を過ごしている。