憧れは哀しからずや病窓に 果実に飽きしみどりごのあり

中島らも『今夜すべてのバーで』(1991年)

*「憧」に「あこが」のルビ。

 

短歌のハッタリとしての効用について考えてみたい。『今夜すべてのバーで』は中島らもの小説。主人公の男と恋人の会話に歌が出てくる。

 

以下引用

「どこへ行ってたんです? この一階も、病室も禁煙室も探したのよ」

「屋上で、同室の綾瀬くんって美少年とデートしてたんだ」

「あ。あの子かわいいわね」

「ダダの本を読んでた。いい子だったぞ」

「小島さんみたいな煤けた中年男から見れば、“族のアタマ”だっていい子にはちがいないわよ」

「そんなのじゃない。歌に詠みたくなるような。“憧れは哀しからずや病窓に 果実に飽きしみどりごのあり”てなもんだ」

「誰の歌?」

「おれが作ったんだ。いま、コーヒー牛乳飲みながらね」

引用終わり

 

この小説を読んだ1991年当時の私は、まだ短歌と無縁だった。面白い小説だ、中島らもって最高だと快調に読み進んできた私は、歌が登場するこの部分で思いきり作者につきとばされた。何だあんたはブンガクの人だったのか。そう思った。歌の作者が中島らもなのか他の人なのかは不明だが、読者には同じことだ。高校古文が万年赤点だった人間には、歌が解読できない。「哀しからずや」の「からずや」って何だ? 「飽きし」の「し」って何だ? 「みどりご」って何だ? 「歌」などという代物を繰り出してくる作者に殺意を覚えたが、同時に古典素養のない自分を恥じてもいた。わからなくてすいません、恐れ入りました、という思いだ。

 

いまこの歌を再読してみれば、首をひねりたくなる歌だとわかる。歌意はとりあえず、憧れというものは哀しくないだろうか、果実に飽きた赤ん坊が病室の窓にいる、と取れるが、疑問続出だ。ダダの本を読むような少年が、なぜ赤ん坊なのか。果実に飽きるとは、どういうことか。食べ飽きたのか、いじくりまわし飽きたのか。憧れが哀しいことと、果実に飽きたことがどう繋がるのか。一字空けは何のためか、等々。かつて「恐れ入りました」などと思った自分は馬鹿みたい、ではなく馬鹿そのものだった。ともあれ、怪しげなこの歌は、短歌に無関心な読者にじゅうぶんハッタリとして通用したのである。私のような読者は少なくなかっただろう。

 

新聞などのコラムでは、なぜだかよく短歌が引用される。短歌に無関心な人を多数読者とする記事の書き手の、(本当はないかもしれない)教養を暗示する小道具としての歌。短歌の役立ち方はさまざまだ。

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