吉野 裕之


花育て草抜き落葉掃く日々を重ねて青年と呼ばれずなりぬ

大下一真『即今』(2008年)

 

厳寒の朝猫来て水を飲む池に水輪を広がらせつつ

めぐり来て朝々落葉掃く季節喪中欠礼のはがきの季節

もがれずに冬越すあまたの実に撓う柿の木濡らす夕の時雨は

ゆくりなく白き椿の一輪の落つるに会いて夕闇深し

仕方なく雲からこぼれて来たような雨いつかやみ春の夕暮

筆洗い硯を洗い手を洗う日暮の水の冷たくなりぬ

振り向けば掃きたる径にはや散れる落葉と遊ぶ季節に入りぬ

小さかる花をいつしか朱(あけ)の実に育てて柿が夕の日を浴ぶ

傾きて夕べようやく届きたる日に際立てりキブシの数珠は

 

謙虚に向き合うとき、自然はその深さのなかにほんとうのやさしさを見せてくれる。自然はときに激しい表情で私たちに迫ってくる。しかし、そうした激しさにも怯まない、そしてやさしさにも甘えない、そんな精神のありようが、自然のほんとうの豊かさを受け取る力になるのだと思う。

 

花育て草抜き落葉掃く日々を重ねて青年と呼ばれずなりぬ

 

春はまた春になり、夏はまた夏になり、秋はまた秋になり、冬はまた冬になる。季節は再びやってくる。しかし、季節は流れていく。そして、人を青年から壮年、老年へと運んでいく。一日一日は小さくて、一日になせることは限られているけれど、十年、二十年、あるいは五十年といった積み重ねも、実はとても小さいということにふと気がついて、しかしそれを受け止めて人は、やはり日々を重ねていくのだろう。

 

おおよそは百歳超え得ぬ人間に老白梅の香りさやけし

平穏に平凡に過ぎて来し日々を夢に誰かと笑い合いたり

老眼鏡重ねてかけんとせしことを夜の机にひとり笑えり

 

『即今』を通読して思うのは、歳月は流れたのだけれど、ずっと変わらずそうだったのではないか、ということ。つまり、その精神のありようのこと。人は歳月を過ごして成熟していく。しかし、この一冊の向こうに見える著者は、成熟といったこととは関わりなく、ずっとそうだったのではないか、そんな感じがするのだ。それは若いときから老成していたということではない。むしろ成熟していない、そんなありようということかもしれない。そんな不思議な感じが、この一冊の大きな魅力だと思う。

「花育て草抜き落葉掃く日々を重ねて青年と呼ばれずなりぬ」。微かな痛みとともに「青年」は、そしてこうことばをこぼすのだ。