朝井さとる『羽音』(2012年)
『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』は、イギリスの作家パメラ・トラヴァース著、林容吉訳の、ロンドンを舞台にした児童文学だ。原題を“Mary Poppins Opens the Door”といい、1943年に書かれた。日本では岩波書店から、同書のほか『風にのってきたメアリー・ポピンズ』『帰ってきたメアリー・ポピンズ』『公園のメアリー・ポピンズ』がシリーズで出ている。読書好きの小学生なら、どれか一冊は手に取る本だろう。
語り手が自分の小学生時代を回想する歌と読む。『とびらをあけるメアリーポピンズ』という題がこわくて、長い間この本を読まなかったという。「つひに読まざりし」ではないので、ある時点では読んだのだろう。でもずいぶん長い間(それが一年か、三、四年なのかはわからないが)、ページを開く勇気が出なかった。事実だけを示して、読み手を立ちどまらせる。
作中の<わたし>が怖いと感じたのは、「とびらをあける」という部分だろうか。いったん開けてしまったら、何が出てくるか、どんなことが起こるかわからない扉。開ける人が、家庭教師兼魔法使いのメアリー・ポピンズとくれば、なおさらだ。むろん反対に、扉をあけたら素敵なことが起こりそうでわくわくするという感じ方もあるし、むしろそう感じる読者の方が多いだろう。タイトルをつけた作家の意図も、そこにあるはずだ。しかし<わたし>は「とびらをあける」という言葉を恐れた。そういう子供だった。あるいは怖かったのは、ことばの意味ではなく「とびらをあける」という平仮名の連なりだったのかもしれない。「とびらを」の「びらを」のところが怖い。「をあけ」が怖い。字を見れば見るほど奇妙でこわい。
むろん、おそれることは、あこがれることである。
さて歌のメアリーは、「メアリーポピンズ」と中黒(・印)がない。「メアリー・ポピンズ」ではない。もしかすると作者は、この世に実在する本ではなく、パラレル・ワールドかどこかにある『とびらをあけるメアリーポピンズ』について語っているのかもしれない。
『羽音』は朝井さとるの第一歌集。男性の作者かと思って読みはじめたら、夫を素材にする歌が出てきたので女性の作者だとわかった。力量のある人だ。短歌のことばを読む楽しみを味わった。印象にのこる歌の一部をあげる。
棒のごと羽をすくめて飛びながら鳥はときどきただ落ちてゐる
母はその母にも死なれ目の前のわれの数へる札にひれふす
むらさきはくさふぢならむ音に身をゆだねてわたる春の鉄橋
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