都築 直子


生まれては死んでゆけ ばか 生まれては死に 死んでゆけ  ばか

早坂類 『ヘヴンリー・ブルー』 写真家・入交佐妃との共著(2002年)

 

海か山か空か、大きな空間へむかって<わたし>が叫んでいるような歌だ。叫ぶことばが、そのまま一行の中身になっている。

 

「生まれては死んでゆけ」と「生まれて死んでゆけ」は違う。助詞「は」が入ると、何度もそれをくりかえす意味が生まれ、同時に「死んでは生まれる」という抱き合わせの表現を呼びこむ。読者は意識の隅で「生まれては死に、死んでは生まれてゆけ」と補って読むことになる。

 

平仮名の「ばか」がユニークだ。短歌にミもフタもなく「ばか」を持ちこむ度胸、といいたくなる。肝のすわった作者だ。

 

それにしても、何が<わたし>にこんな呪詛を叫ばせるのか。<わたし>は誰に向かって「ばか」といっているのか。歌のことばには手がかりがない。歌集は一ページ一首立てであり、前後のページにヒントとなる歌もない。いわば、そこにあるべき長歌が省略された反歌のような歌だ。語られないストーリーの内容は、読者それぞれの想像力にゆだねられている。

 

心をまっしろにして、気持を集中して、一行のことばを受けとる。

どんなイメージがひらめくか。

 

この歌を再読する少し前に、私はたまたま「希望の国」という、3・11の被曝により土地家屋を失った夫婦を材にする映画を見ていたので、一首を読んだとたん、映画終盤のクライマックスシーンが浮かんだ。放射能汚染立入禁止地域に迷いこんだ認知症の妻が、探しに来た夫におぶわれて童謡を歌う場面だ。もし妻役の大谷直子が惚けと色香のまじる声で、「生まれてはあ 死んでゆけえ ばかああ」と叫んだら、どんなにこのことばが生き生きするだろう。そう思った。

 

けれど、もしもこのとき別の映画、たとえば「ミッション・インポッシブル」を見ていたとしたら、世界一高いビル、ブルジュ・ハリファの外壁をよじのぼるトム・クルーズのスタント場面を思っただろう。「生まれては死んでゆけ、ばかあ」と叫びつつ、160階建て高さ828メートルのビル垂壁をのぼる超人スパイ。ことばにぴったりの状況だ。

 

というように、勝手な想像を羽ばたかせるのは、歌の作りがそれを要求するからだ。そういう歌の作り方であり、読み方。読み手として、私は楽しむ。

 

作者は、完全口語文で歌を書く。破調作品が多い、というより、いわゆる自由律短歌に限りなく近い。この歌も、あえて切れば<生まれては/死んでゆけ ばか/ 生まれては/死に 死んでゆけ/ ばか>と5・7・5・7・2になるが、それでいいのか。しかし一首ずつ切り方に悩みながら読むより、むしろ定型韻律のことは忘れ詩として接した方が、私には早坂ワールドをふかく感受できるようだ。