吉野 裕之


夜学終え歩む一人の長き影われに追われて揺るるわが影

武川忠一『青釉』(1975年)

 

その壁の傷跡いつも鮮やかに透きたりガラスを距つといえど

昏れ残る路の彼方の橋白し歩みゆくべきわれとわが影

きれぎれに散りゆくものを追う夜の裏山はいつも木枯の墓

みずからのつくりし創と氷片を噛みくだく音たてつつ思う

バラの枝無様(ぶざま)に伸びる影映し棘くろぐろと雪に焼きつく

 

厳しさといってもいい硬質なありようが魅力の作品たち。武川忠一の3冊目の歌集『青釉』は、たとえばこうした作品を収めている。対象との距離の確かさ、あるいは知と情のバランスの確かさといってもいいだろう。「白じらと光る氷湖の沖解けて倚るべきものに遠く歩めり」「造らるる巨船はすでに聳え立ち横ざまにその非情を保つ」「生きていて死にいる母のいのちにて子のわれとおり風吹き抜けよ」といった作品を収める最初の歌集『氷湖』(1959年)から16年、より深く読者に届く作品群だと思う。

 

浴場のしまい湯流す側溝に人のにおいの湯気あたたかし

丘に咲く紅梅の花老木の慈愛は冬のひかりに匂う

落葉松の葉のこまやかに降る峠足裏(あうら)よりくる羞(やさ)しきものが

幾たびを越えし峠路腐葉土のやわらかくして若き日過ぎぬ

摘みためし秋草の花杳(とお)き日の山のひと日の長かりしかな

 

厳しさは、やさしさに支えられている。匂いや足裏の感覚。こうした感覚は、自らを解き放ちながらなされるものだ。そのとき、人は無防備になる。信頼すること。それがなければ人は無防備になれない。武川は、自身を取り巻くもの/ことを信頼している。「杳き日の山のひと日の長かりしかな」。だから、こうつぶやくことができるのだろう。杳き日は、自身のそれであるとともに、すべての人のそれなのだと思う。そして、杳き日は穏やかな未来のことでもある。

 

夜学終え歩む一人の長き影われに追われて揺るるわが影

 

教職は孤独な仕事だ。多くの学生や生徒に囲まれながら、やはりひとりなのだと思う。一冊には「水のごと冷え冷えとわれを浸すもの夜の教室にひとりとなれば」という作品もあるが、常に教室を最後に出るのは教師である。授業が終われば、学生や生徒は明るい表情で教室を出ていく。教師は、黒板を消し、教卓のうえのノートや資料を片付けながら、ひとりとなる。

不思議な一首である。「夜学終え歩む一人」。まず、夜間の授業を終えた一人の像が浮かぶ。「~の長き影」。それは、人そのものではなく、影であることがわかる。「われに追われて」。私がその影を追いかけている。そうとは書かれていないが、影は他者のそれと思う。「揺るるわが影」。しかし、影は自身のものであり、それを追いかけているのだ。

ここには、複数の、あるいは移動する視点がある。キュビズム的な手法といってもいいだろう。こうした視点は、対象の全側面的な存在を可視化する方法である。そこでは、対象との遠近法的な構成は喪失し、見る主体もいわばその存在が消去されていく。意志だけとなったわれがわが影を追っていく。孤独という精神のありようが、美しく結晶した一首だと思う。