中野昭子『夏桜』(2007年)
貴賓席に椅子の多くて椅子のまを通る貴賓が横歩きする
夏木立の暗き森へはまだやれぬこの子笑ふとまへ歯がなくて
ひとの気持の分かるロボット造るといふロボットの迷惑二の次として
五歳児のもうよろこばずされどわが詰まらぬときのペンギン歩き
少年はわが少年の留守にきて帰りぬ犬としばらく話し
鼬色で鼬の速さの鼬くらゐが道横切りて物陰に消ゆ
みずからを家のふかくに進めゆく音せりよるの老いの母の杖
私たちは、みなやさしい。中野昭子の作品を読んでいると、そういう気持ちになる。「貴賓席に椅子の多くて椅子のまを通る貴賓が横歩きする」。ええっ。「夏木立の暗き森へはまだやれぬこの子笑ふとまへ歯がなくて」。はぁ? 「ひとの気持の分かるロボット造るといふロボットの迷惑二の次として」。うん、うん、うん。…という感じにはなるのだが、「ええっ」「はぁ?」「うん、うん、うん」のあとから、なんだかとても穏やかなものがやってくる。
私たちは、人の間(あいだ)で生きている。だから人間なのだが、人の間で生きていくのはたいへんだ。たんさんのベクトルに囲まれて、ベクトルはいろいろな指示を出してくるし、ときに突き刺さってくる。「ええっ」「はぁ?」「うん、うん、うん」は、それを巧みに捉えたことへの共感。その巧みさは、同時にベクトルが生まれる前の、そんな人間のありようも捉えている。
熟柿(うれがき)はわれを抱きし伯母のやうぽたぽたとして皮破れさう
なんだか涙が出そうだ。「熟柿は伯母のやう」ではなく、「熟柿はわれを抱きし伯母のやう」なのだ。伯母は私を抱いてくれている。だから、…。
晩秋の、濃い日差しのなかの熟柿が立ち上がってくる。そして、大きな大きな伯母の姿が。「ぽたぽた」というオノマトペ、「~やう」「~さう」の音の響き合いがほんとうにやさしい。