さしだせるひとさしゆびに蜻蛉はとまりぬ其れは飛ぶための重さ

光森裕樹『うづまき管だより』(2012年)

*「蜻蛉」に「せいれい」のルビ。

 

四句に句割れのある歌だ。読むときは<さしだせる/ひとさしゆびに/蜻蛉は/とまりぬ其れは/飛ぶための重さ>と5・7・5・7・8音に切るが、意味の上では四句が「とまりぬ」と「其れは」に分かれる。<わたし>のさしだす人さし指に蜻蛉はとまった、指に感じるその重さは蜻蛉が飛ぶためめの重さだ、と歌はいう。

 

表現の上で面白い点が二つある。一つ、「其れは」。スタンダードな短歌的作りでは、「それは」ではなく「これは」と置くところだ。

 

さしだせるひとさしゆびに蜻蛉はとまりぬ是れは飛ぶための重さ  (改作)

さしだせるひとさしゆびに蜻蛉はとまりぬ其れは飛ぶための重さ  (原作)

 

「是れは」とした場合、蜻蛉のとまっている自分の指を見ながら「これは飛ぶための重さだ」と<わたし>が感じていることになる。そういう読みになる。一方「其れは」の場合、短歌ではあまり見かけない表現なので、初句から読みくだしてきて「それは?」と立ちどまる。けれど、これが小説かエッセイの中にある文章だと考えれば違和感はない。

「ぼくがさしだす人さし指に蜻蛉が止まった。それは飛ぶための重さだ」

文章は「ぼく」の一人称で語られているが、「それは飛ぶための重さだ」は、「ぼく」の視点というよりは第三者的な、半ば神の視点からのものいいだ。よくある記述スタイルである。小説やエッセイふうのことばづかいを、作者は短歌の中に持ち込んだ。そこが面白い。「其れ」と書くことにより、一首はいわば<わたし>べったりではなくなった。風通しがよくなった、といういい方もできる。

 

二つ目の点は、「飛ぶための重さ」の「重さ」だ。実際は「軽さ」でもある。ことばの不便なところは、たとえば葉書一枚がどんなに軽くても「葉書の軽さを量る」とはいえないことだ。軽いことを確かめたくて量るときも「葉書の重さを量る」といわなければならない。厚さ薄さ、長さ短さ、深さ浅さ、広さ狭さ、みなしかり。

飛ぶためには軽くなければならない。これは常識だ。鳥も飛行機も、飛ぶために1グラムでも0.5グラムでも身体を軽くする。蜻蛉だって同じことだ。しかし、「其れは飛ぶための重さ」といったとたん、飛ぶためには何かの一つ覚えのように軽いだけではなく実は重みも必要なのだ、という真実が明かされる。読み手はハッとする。

 

一首は明石海人のつぎの歌を踏まえるだろう。

 

わが指の頂にきて金花虫のけはひはやがて羽根ひらきたり  明石海人『白描』

*「金花虫」に「たまむし」のルビ。

 

この歌を作ったとき、作者は病で視力を失っていた。触角により世界を捉えて印象鮮明な歌だ。

なお、『うづまき管だより』は電子書籍の形で出版されており、紙の本は存在しない。ユニークな試みである。私は、短歌の友人に借りたキンドルでこの歌集を読んだ。

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