足立晶子『雪耳(シュエアル)』(2001年)
だしぬけに真夏日となるわたくしがねむらうとする午前十時を
くきくきと背骨を折りてゆくやうにわが体(たい)を折り木苺に触る
一つ一つ卵は日付つけられてパックされゐるはづまぬやうに
能勢口(のせぐち)より妙見口まで口と口結ぶ電車は風をはらみて
わたくしにぶつかり舐めに来る者がいなくなりたる秋 冬がくる
もうそんな時間だつたか昨日(きぞ)のごとフェンスの影が壁に差しくる
組んでゐた脚が解けない黄昏がぐんぐん海に広がりてをり
足立晶子は短歌という詩型を信じている。こうした作品を読みながら、そのことを思う。
足立は、自己を取り巻く環境としての世界のありようを、その身体とそこに蓄積されている、あるいはされるべき時間を通して現していく。世界/身体/時間。これらの結びつき方、あるいは結びつけ方。それは、しかし必ずしも常に安定しているわけではない。このあたりまえのことが、基本に置かれている。足立は自然体で対象に真向かう。その態度は、対象を、そして自己を信じること、つまり、その可能性を大切に育む態度のことである。だから世界は、その本来のありようを見せてくれるのである。
こんなにも太つてしまひし青柿よ六月まひる出会ひがしらに
明るい一首だ。六月の、梅雨の晴れ間のできごとだろうか。大きく育っている柿の実に出会った。たったそれだけのことだが、とてもとても豊かだ。
ここには、異なった3つの時間がある。青柿の太っていく過程という時間。六月という制度が定めた時間。出会いがしらという目の前にある時間。これら3つの時間が織りなす風景の「図」として、青柿と彼女が置かれている。出会いがしらとは、単に時間をいうだけのことばではない。青柿を健やかに捉える彼女の身体が、ここにはある。
世界/身体/時間。これらの結びつき方、あるいは結びつけ方。比喩的な言い方になるが、彼女においてそれは、加算ではなく乗算、つまり「世界+身体+時間」ではなく「世界×身体×時間」なのだ。
歌集名の雪耳は、中国語で白きくらげのこと。とてもチャーミングな名前だ。