橋本喜典『無冠』(1994年)
わが生命(いのち)燃えよとひとり野に立ちて空を仰ぎぬ二月の空を 『冬の旅』(1955年)
みはるかす春の夕べの空の色生まれくる子の住むかと思う 『思惟の花』(1964年)
シュプレヒコール過ぎゆくを待つ教壇にわれは言葉を抱きしめている 『黎樹』(1977年)
凄まじき風の響(とよ)みにいくたびか眼ざめては思う山の容(かたち)を 『地上の問』(1984年)
写真屋が笑えと言いて笑わざる顔一つあり原爆碑の前 『去来』(1990年)
一首がまっすぐに立っている。橋本喜典の作品を読みながら、そのことを思う。自然や他者への視線がやさしい。そして、やさしさはきびしさの向こうにしかないということを思う。
弟のかんばせ蔽ふ白布(しろぬの)を落葉の匂ふ風が通れり
歌意に不明なところはない。どこに立ち止まる必要もない。初句から結句まで、読みはすっと進んでいく。しかしそれは、けっして簡単なことではないだろう。とくに、「白布」が「弟のかんばせ蔽ふ」という「いま・ここ」では。
私たちは常に、「いま・ここ」にいる。「いま・ここ」は一回しかない。予行練習なんてない。慣れるなんてこともない。喜びも悲しみも、一回のもの/ことだ。
「弟のかんばせ蔽ふ白布」。詠まれているのは「白布」。しかしそこには、「弟」がいる。「白布を落葉の匂ふ風が通れり」。しかし、部屋を風が通っていく。風が、あるいは風が通っていく部屋が媒介となって、弟と私がいる。風、あるいは部屋。それは時間だろう。ふたりが共有した時間、そしてそれに対する感謝の気持ち。その、精神の透明さを思う。
ここを動かず五月の空に立つ欅一処(いつしよ)の生(せい)の輝き降らす 『一己』(2003年)
まさやかに冬はきたりぬ春めくと空を見る日のまためぐり来む 『悲母像』(2008年)
薄雪の庭に佇む水仙の風姿花伝といふ一書あり 『な忘れそ』(2012年)
一首は、まっすぐに立っている。