地獄酒極楽酒のけじめなく二升たちまち火の粉となりぬ

菱川善夫『菱川善夫歌集』(2013年)

 

菱川善夫も、また歌人であった。北海道を拠点として『現代短歌 美と思想』『飢餓と充足』などの評論があり、前衛短歌運動の批評面での旗手であった菱川だが、若き日から一貫して短歌をつくることは辞めていなかった。とりわけ病後、短歌創作は全開されたようだ。菱川没後、その意を汲んだ和子夫人によって一冊の歌集が完成した。

小樽中学の生徒であった時代の作品から最晩年までの六百首を超える短歌が、ここに集められている。

 

さかさまに蜘蛛はさがりて強権のあらしのあとの空の高晴れ

 

この歌集の直接の編者である三枝昴之の「解題」に取り上げられている小樽中学の戦後第一回の文化祭において第一席に選ばれた一首だという。「強権」という語に反応する菱川がすでにここにいる。この歌は、「蜘蛛はかまへて」、「あらし」を「嵐」に変えて「新墾」(1947年10月号)に投稿、この歌集に収録されている。

その後、口語自由律の作品や詩を作るが、塚本邦雄の創作活動の批評面での伴走者になるのだ。その華々しい批評活動と篤実な研究がほぼ晩年まで衰えることなく継続する。

力を込めて短歌創作が再開されるのは、菱川の病気が発見されてからのことである。

 

胃袋に穴を開けしは酒ならず人ならずペンの故なれどわれは嘆かず

折しも折『美と思想』がとどきたる 束の間ならず止みし呻吟

塚本に入退院の歌なきを我は尊ぶいまさらにして

 

一首目には、「六月十一日 夜胃袋に穴開き緊急入院、翌十二日手術」の詞書がある。2007年6月以降「病院入院録雑記」と記された内の歌である。手術後の作歌ということだ。病気を真っ向から受け止めている菱川が、ここに存在する。

地獄酒の一首は、「退院後」の歌だ。「それにしても前夜福島と交わした酒の忘れがたさよ」と詞書にある。菱川善夫は、おそらく酒徒であったろう。推量で言うのは、実際に菱川が酒を飲む場面にたった一度しか同席していないからだが、その飲みっぷりを拝見するに、素敵な酒徒であることが了解できる。熱く、きれいな酒であっただろう。

私も、菱川さんには及ばぬながら酒好きであった。酒席での失敗は限りない。だからこそ、この歌ののみっぷりがよくわかる。地獄酒、極楽酒、酒の持つ二面だ。飲んでいるあいだは極楽なのだが、翌日のつらさは、まさに地獄、それでも酒に酔い「火の粉」のごとき気焔をあげる。そこからとてつもない創造の炎が燃え上がることもある。福島泰樹も壮大な酒徒であるから、いっそうの拍車がかかった。この歌がある所以である。

先に菱川さんとの酒の場は一度だと書いた。そうたった一度なのだが、それがとても貴重な一度であった。

2005年9月札幌の北海学園大学で開催された現代短歌研究会のシンポジウムに参加した。現代短歌研究会は、大学院レベルの短歌研究者の発表の場として菱川の発案で成立した会であった。その何年目か、年間研究テーマが「伝統」であった年、私はパネラーの一人として札幌へ伺った。私の発言がはっきりしなかったせいもあって、私には生煮え感の残る会であったのだが、充実した会であったことは間違いない。多くの課題をいただいた。とりわけ菱川さんの最後のコメントに私は感嘆した。パネラー一人一人への理解と問題点、そして伝統というテーマの次への展開について、短時間に手際よく聴衆にも理解しやすいコメントであった。この人は、ほんものだ、私はそう思った。

そして会を終えて、二次会、三次会と酒の席に移っていった。その最後の札幌ラーメンの店だった。いや、その前の薄野の菱川さん行きつけの酒舗であったかもしれない。菱川さんと私の間に激しい行き違いがあった。細部は酔いもあって記憶が定かではないのだが、酒の上とはいえ激しい言葉が行き合った。今日の一首の、まさに「火の粉」である。

酒の上の喧嘩は、私の悪い癖の一つである。菱川さんにこなまいきなことを申し上げたのだろう。目上の人の反感を、どうやら私はかいやすいようだ。これまでにも同様のことが何度かあった。

そんな顛末もあったのだが、気持ちよくシンポジウムを終えて、飛行機は苦手なので翌日の夜行列車で帰京した。家に着いて驚いた。私より先に菱川さんからの手紙が速達で届いていた。これには、ほんとうにびっくりした。

その手紙は、菱川さんの詫び状であった。美しい筆文字の手紙は、詫び状とはこう書くものだというようなものであった。これは、なんだか私が申し訳ないことをしたような気持になった。菱川さんへの尊敬の気持ちが、にじむように心に広がるのを感じた。詳しくは、またどこかに書き記しておこうと考えている。菱川さんの自筆のその封書は、宝物のようにたいせつにしている。