邸にはほど遠き家ごめんなさい父母舅みなは住めない

森川多佳子『スタバの雨』(平成25年、短歌研究社)

 状況としては、実の父母や舅と同居しなければならない事情があるのだが、家が狭くて引き取れないということであろう。ごくごく公式的に言ってしまえば、現代日本の介護の問題、住宅問題を端的に象徴している作品ということになるのだが、この一首には、そんな公式をふっ飛ばしてしまうような切実さと深い思いが感じられる。

 「邸」はこの場合、「やしき」と読むのだろうか。「邸宅」「豪邸」「官邸」などのように広くて豪華な家をイメージする。しかし、作者の家はそんなに広くないという。歌集の他の作品に「官舎」とあるから、それかも知れない。官舎であれば、必要最小限の部屋数しかないであろう。とても親と同居できる状況ではない。ひょっとしたら、父母や舅の誰か一人か二人だけなら引き取ることができるのかも知れない。しかし、作者にとっては三人のうちの誰かだけというわけにはいかないのだ。引き取るなら三人とも引き取らなければならないのであろう。

 作者はその事実を「ごめんなさい」と謝罪する。家が狭いのは作者の責任ではない。そもそも誰に謝っているのか。「父母舅」に謝っているとも取れるが、「父母舅」に話しかけている文体ではない。誰にともなく、というよりも、作者は自分自身の不甲斐なさを嘆いているようだ。

 結句の話し言葉も、自分自身に呟いているような印象を受ける。この一首が訴えているのは自分を生み育ててくれた父母、そして愛する夫を育ててくれた舅、そのような作者にとって大切な人を大切にできない自分自身の悲しさなのだと思う。恐らく現代の日本には、この作者と同じように住宅事情によって引き取らなければならない人を引き取れない無数の人がいる。そして、ある人は政治を批判し、またある人は夫の稼ぎの少なさを嘆き、またある人は己の不甲斐なさを嘆いているのであろう。

  失恋の子の不機嫌は見えぬふり居間に地蔵の目をして座る

  弟の世話ちょっとだけして帰るわれは看護婦さんの客なり

  駅前のパン屋の隅の喫茶席ふゆぐれの窓にひとり老いゆく