都築 直子


だれもみな手首に鍵をゴムで留めほとんど裸で水に入った

牧野芝草『整流』(2012年)

 

その場にいる誰もがみなゴムで鍵を手首に留めて、裸同然の姿で水に入るのは、そこがプールだからだ。歌集の中では、この歌の前に〈鉄棒に表皮を忘れた膕に汗がしみます五時間目です〉(*「膕」に「ひかがみ」のルビ)が置かれているので、たぶん小学校のプールだろう。作者は、「プール」「水泳」「水着」などのことばを使わない。「手首に鍵をゴムで留め」「ほとんど裸」とだけいって、それとわからせる。

 

いわゆる短歌的抒情とされるものを、歌の中から徹底して排除しようとする作者だ。従来の描き方による水泳の秀歌は、たとえば次のような作品である。

 

プールより濡れて上り来にんげんのうらおもてある妖しきししむら  高野公彦『淡青』

*「来」に「く」、「妖」に「け」のルビ

夕暮の水よりあがる人体に翼なければあゆみはじめき    小池光『廃駅』

どこまでも泳ぎゆくなり鰓呼吸してゐる体に水やはらかく  河野裕子『歩く』

*「鰓」に「えら」のルビ

 

高野公彦の歌は、人間を「うらおもてある妖しきししむら」と捉えたところに詩がある。このようにいわれると、ありきたりのプール風景が、奇妙な生物の行き交う異次元風景に見えてくる。小池光の歌は、「翼なければあゆみはじめき」の発見に詩がある。いわれれば当たり前のことながら、改めてはっとする。水の中では自在な浮遊感を得ても、水からあがれば重力に従うよりほかなく、地を這うよりほかないもの、それが人間なのだ。河野裕子の歌では、「鰓呼吸してゐる体」と、人間は魚になる。泳いでいるときの気持ちよさを端的に伝える。

 

牧野の歌は、同じ「泳ぐ人体」を素材にしても、捕まえるところがこれらの歌と違う。「手首に鍵をゴムで留め」と、行動を即物的に表現する。もしも「プールの入り方」のマニュアルがあったら、そこに書かれるような言葉遣いだ。そして、プールサイドの人を「ほとんど裸」とそっけなくいう。「うらおもてある」「翼なければ」などイメージ喚起力のあるこばを探そうとはしない。探すのはあくまで、抒情と反対方向のことばだ。「ほとんど裸」はその収穫であり、水着姿の人間を描いておもしろい表現である。

歌集中の別の一首〈真夜中の湯船に浮かぶ柚子を握る 干渉縞は広がって消え〉も、湯船はものを思うところ、という従来的な方向には行かない。「干渉縞は広がって消え」と即物的、理科の教科書的に行く。

プールの歌にも、湯船の歌にも、これまでの短歌にはないちょっと奇妙な感じがただよっている。

 

作者の第一歌集『整流』は、このような姿勢に貫かれた一冊だ。こんな短歌はどうでしょう、と問いかける。「うん、おもしろい」と思うか、「うーん、ちょっと」と思うかは、読者のあなた次第だ。