森比左志『月の谷』(2008年)
小学生が写生してゐる画紙の中韮山反射炉方形に高し
忘れもののやうな入江の島ひとつ白の動きて朝釣りすらし
濁流に荒るる洪水映像の端つこに揺るるは白き花木槿
バスは来ない老いの仕種に背をのばす立春の空に雲が浮いてゐる
ややに酔ひし目に星かげの潤(うる)みをりすこし先まで歩を延ばさむか
それぞれ、たっぷりともの/ことを含んでいる。いずれも、字あまりの作品。音数を減らしても、作品は成立するだろう。しかし、森比左志はゆったりとことばを運ぶ。それが、森のらしさなのだろう。
ゆったりと、とぼけたような、まじめなような。一首目、二首目、三首目はもちろん、四首目だって、五首目だって、けっしてとぼけてなんかいないだろう。しかし、なんだかそんな感じがするのだ。森の心の大きさなのだと思う。
百千体じぐざぐに並ぶ石仏のかたぶきしまま夜は眠らむか
やはり、ゆったりとある一首。6・8・5・7・7。初句と二句が字あまりになっている。(結句は7音と理解したほうが、一首のバランスがいいように思う。)
「百千体じぐざぐに並ぶ」。まず、全体の様態が提示される。「百千体」であること、それが「じぐざぐに並ぶ」こと。この時点で石仏であることはわからない。「石仏の」。石仏であることがわかる。「かたぶきしまま」。そして、個別の様態が提示される。初句から四句まで、視点のありようがつぎつぎに変化していくのだ。ゆったりとしながら、シャープ。
「夜は眠らむか」。眠るのは石仏だろう。しかし、〈私〉と読むことも可能だ。あるいは、私たち。
とぼけたような、まじめなような。抽象のような、具象のような。