和嶋勝利『雛罌粟(コクリコ)の気圏』(2009年)
雨の日は、嗅覚がすこし鋭くなる。雨が、時間や空間を越えて、匂いを運んでくれるのだろうか。いや、ほんとうは、湿度が高くなると鼻の粘膜が湿って、嗅覚が鋭くなるのだそうだ。でも、そういってしまうとなんだかつまらないし、遠いどこかの匂いを感じるのも確かだ。
「すでにして海の匂いをなつかしむ」。海は、都市との対比としてあるのだろう。しかし、ふたつは必ずしも対立しているわけではない。海があるから都市があるのであり、都市があるから海があるのだ。互いにその意味をくっきりと立たせる、そんな働きをしているのだと思う。
「仕事へ向かう雨の朝(あした)は」。だから、都市=仕事は、〈私〉にとってポジティブなもの/ことのはずだ。けっして、海の匂いを懐かしんで、仕事に行きたくない、といったことではない。海の匂いも仕事も、〈私〉にとって大切な日常なのだ。仕事。そう、仕事に向かうのだ。職場ではない。
三句切れ倒置法の端正なかたちが、〈私〉の精神のありようを示している。
朝食という習慣を試みむまずは林檎のひと欠片から
大鳥居見返りながら離りゆく海までの坂なだらかなりき
風立つと欠伸をひとつ空き缶が転がり季(とき)がまためぐりたり
己さえ何だかわからぬ祖母なれどひとを手伝い押す車椅子
のどかなる声と思えど子の眠りさまたげゆくか さおやさおだけ
秋めくとまだまだいえぬこの真昼子が眠るとき妻も眠りぬ
近道は団地のなかの公園の白き木槿の咲きたるところ
和嶋勝利の『雛罌粟(コクリコ)の気圏』は、日常のなにげないことがらを詠みながら、その表情がくっきりと届く、そんな作品たちを収めている。あるいは、生活者としての健やかさ、ということかもしれない。対象への思いが風景のなかで巧みなバランスを保っており、つまり、対象と自己とのバランスの巧みさということだと思う。
「土曜日に兜町にいるあわれさの鰻屋でさえ休む土用丑」「若書きの詩歌のごとしひりひりと新大阪行き片道切符」といったビジネスパーソンとしての作品も、一冊の特徴になっている。