吉野 裕之


子を抱きて名取川渡りつつ転びさらに自分がわからなくなる

大口玲子『トリサンナイタ』(2012年)

 

スキップで八十八歩わが家の近くには良き居酒屋のあり

 

歌集『トリサンナイタ』の最初のページに置かれた一首。「スキップで八十八歩」。この明るさが大口玲子のよさを示していると思う。しかし、この一首が明るさからだけ形づくられているわけではないことに、読者はすぐに気づく。

 

子を抱きて名取川渡りつつ転びさらに自分がわからなくなる

 

「子を抱きて名取川渡りつつ転び」。名取川は宮城県中部を東流する一級河川。子どもを抱いて、歩いて橋を渡ったのだろう。転んでしまった。5・8・5の字あまりと二句から三句へかけての句またがりが、転んだようすをうまく捉えている。

「さらに自分がわからなくなる」。おそらく、そうなのだと思う。自分がわからない。わからないことがわかってはいるのだけれど、なんとかわかりつつあるように納得させながら、しかしふと、転んだ拍子に、やはりわからないのだということに気づかされる。

不安。私たちは、常に不安を抱えている。そのなかでも、自分がわからないという不安はとても大きなものだ。

 

酒に酔ひ汚れて帰り来し夫が苦しみ寝入るまでを見てゐつ

イースター・エッグを包む薄紙を花びらむしるやうに解きたり

わたくしの体は深く耕され土の疲れに眠りてゆかむ

じわじわとやぶれつつ命産みし日の雲なき空が写真に残る

まだ歩かぬわが子味はひ尽くすべく畳の上に転がしておく

たかだかと子の足首を持ち上げて桜散るなか襁褓替へたり

スナフキンの帽子をきみにかぶせたき日差しとなりて落葉を拾ふ

 

私たちは、自らの力だけで自身を知ることはできない。たとえば体の表面も、おそらく半分以上は見ることができない。背中や後頭部はもちろん、大切な顔さえも直接見ることはできないし、鏡を使っても、左右反対の、つまり正しくはない像しか見ることができない。あるいは誰かに抱かれたとき、その人の暖かさとともに、日ごろはあまり意識しない自らの体の表面の位置を知ることになる。それは精神においても同じだ。他者とぶつかり合ったとき、気づいていなかった自らの見方、考え方の輪郭がわかる。

私たちは、他者を通して、他者に反射されて自らを知るのだ。だからこそ私たちは、他者を知ろうとする。しかし、ほんとうは知りたくないのかもしれない。なぜなら、他者を知れば知るほど、自らを知ることになるから。自らを知ること。それは、自分がわからないということを知ること。