加藤治郎『環状線のモンスター』(2006年)
『環状線のモンスター』は加藤治郎の6冊目の歌集。40代後半で6冊の歌集は、必ずしも多くはないかもしれないが、けっして少ない数ではない。そのことを思う。
ふたり人工臓器のように繋がって頬が破れるまで愛したい
掻き分けてもかきわけても密雲のあなたの耳はここにはあらず
いつもより痛い日差しだ さとうきび畑の中の錆びたトラック
抱くときあなたは塔のようであり雨がしずかに溢れ続ける
やらせてる体がひどくこわばったところでぼくは切り刻む、ザム
もひとつパンをいかがですかと山猫がいうのでぼくは学校に行く
シーソーの脚が静かにおりてきてそこはそのまま戦場だった
たとえばこんな7首を引いてみる。懐かしいような、でもそれぞれに加藤治郎らしい工夫があって、それが心地よく届いてくる。
おそらく加藤の関心は、作品を制作する主体である自身に向かっているのだ。加藤の作品は、価値判断をしない。価値判断は、事象を過去のものにする。加藤は過去のものとしてそれを累積するのではなく、常に現在として関わることによって、こうした事象と自身との位置関係を測っているのだろう。それは、世界がときに垣間見せるその本質を捉えるための方法なのだとも思う。
逢ったのはインターネットそこはただ風の生まれる原っぱだった
「逢ったのはインターネット」。誰に逢ったのか。大切な人に逢ったのだ。大切な人。ただそれだけでいいのだと思う。
「そこはただ風の生まれる原っぱだった」。インターネットは、通信プロトコルTCP/IPを用いて相互に接続したコンピュータネットワーク。といっても、こうした定義を求める人はほとんどいないだろう。インターネットはそれだけ私たちの日常になっている。だからこそ、「そこはただ風の生まれる原っぱだった」というフレーズが機能している。「風の生まれる原っぱ」。それは可能性のことだろう。つまり、立ち会う意志と未来への願い。
シンプルで美しい一首だ。