山中智恵子『紡錘』(1963年)
短歌を読んだことのない読書好きの友人に、「いまどきの短歌ってどんなもの?」と聞かれたら、あなたは誰の歌をあげるだろう。私なら山中智恵子(1925年5月4日―2006年3月9日)の歌をあげる。「こういう歌よ」と音読する。
〈水甕の/空ひびきあふ/夏つばめ/ものにつかざる/こゑごゑやさし〉と5・7・5・7・7音に切って、一首三十一音。
「みずがめのそらひびきあうなつつばめ、ものにつかざるこえごえやさし」
何だかわからないけれどかっこいい。一度聞いてまず思うだろう。そこが肝心だ。一度聞いてかっこいいと思えること。意味などわからなくていい。耳の奥にことばがひろがってゆく。ことばのひびきを感じる、という状態を楽しむ。それが肝心だ。意味をわかろうとしない。わからない、という状態を楽しむ。
短歌は、ことばのひびきが語るものがすべてだ。
何度もくりかえし一首を舌のうえにころがしていると、なぜひびきが心地いいのか見当がついてくる。上下の唇を合わせる音が、初句から五句までに「ミズガメ」のミ、メ、「ヒビキアウナツツバメ」のビ、バ、メ、「モノ」のモ、と六回出てくるのだ。その後の「ニツカザルコエゴエヤサシ」には一度も出てこない。また「コエゴエヤサシ」の部分では、舌が口内のどこにも触れない。舌は、「ものにつかざる舌」となる。ことばを発する側にも、それを聞く側にも、これら一連の状況は無意識のうちに快く感じられるのではないか。
短歌に触れたことのない人が、「ことばのひびきを感じる」という短歌享受の核心をつかむのに、山中智恵子の初期作品は最適だ。
さて、蛇足としていま一首の意味を考えてみれば、「水甕の空」は、水をたたえた水甕のような空とも、水甕の水に映っている空とも読める。夏つばめは、空中の燕かもしれないし、水に映っている燕もしれない。「ものにつかざる」というフレーズは、松尾芭蕉〈原中やものにもつかず啼く雲雀〉(『あつめ句』 *「原中」に「はらなか」、「啼」に「な」のルビ)を踏まえる。「ものにつかざるこゑごゑ」の読みも、さまざまだ。物欲のない声、あるいは、示す対象物を持たないことば。さしあたりここでは、地上を離れて自由な空にいる燕の声、と読んでおく。
声しぼる蝉は背後に翳りつつ鎮石のごとく手紙もちゆく 『紡錘』 *「鎮石」に「しづし」のルビ
行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ 『みずかありなむ』
*「鳥髪」に「とりかみ」のルビ
秋の日の高額、染野、くれぐれと道ほそりたりみずかなりなむ
*「高額」に「たかぬか」、「染野」に「そめの」のルビ
「短歌ってどういうもの?」と友人に聞かれたら、「まあお聞き」とこれらの歌をすらすら暗唱してみせる。そういう人に、私はなりたい。