吉野 裕之


団塊の世代の構成員として父はサボテンの棘を育てる

齋藤芳生『桃花水を待つ』(2010年)

 

桃花水とは、桃の花の咲くころ、氷や雪が解けて大量に流れる川の水のこと。美しい。

 

ふるさとの川の濁りに羽化したるカゲロウは吹雪よりも激しき

てんてんと四角い光をはりつけてふるさとのビルは倒れそうなり

摘花作業の始まる朝よ春なればふるさとは桃花水にふくるる

 

齋藤芳生は、あとがきに「よい家族に恵まれたからこそ、私はどこにいても、私でいることができました」と記す。こうした素直な発語が、齋藤のらしさなのだろう。

ふるさとを詠んだ3首。いずれもふるさとということばが直接詠み込まれているが、けっして重たくはない。ある距離感がさわやかだ。

 

隠したまま返さなかった消しゴムのことなど 校舎は建て替えられて

海ではなく大都市に流れ着くことのどうしようもなき両手を洗う

かつては湖の底であったという盆地わぐわぐと夏の暑さ溜めゆく

葡萄蔓のように左へ伸びてゆくアラビア文字をたどれば 朝だ

世界中からきて人々はさみしがる エレベーターの中の微笑み

疲れた君がひたすら海をみるための小さな白い椅子でありたい

アラビアの母親たちに似て丈夫陽を撥ね返す白き水甕

 

さわやかさ。つまり、対象の切り取り方と処理の仕方。謙虚というとつまらなくなってしまうが、それは家族に対する思いと無縁ではないだろう。齋藤にとって家族は核。核があるからこそ、謙虚になれる。謙虚とは、過剰でないこと。

 

団塊の世代の構成員として父はサボテンの棘を育てる

 

ああ、こんな捉え方ができるのだ。「団塊の世代の構成員」。そう、構成員なのだ。構成員。組織や共同体を構成する一員といった意味でしかないが、輪郭がくっきりした感じがして、なんだか格好いい。おそらく、格好いい父なのだ。「父はサボテンの棘を育てる」。その父は、サボテンの棘を育てている。おお、と思う。サボテンではなく、サボテンの棘だ。やはり、格好いい父なのだ。(サボテンの棘を育てているとなぜ格好いいのかを説明するのは難しいが…。)しかも、「~として」である。上句と下句のこの結びつきは、なかなかない。

団塊の世代は昭和22年から24年までの3年間に出生した世代を指すが、〈私〉にとっておそらくリアリティはないだろう。だからこそ、「格好いい父」が目の前にいる。